大井川通信

大井川あたりの事ども

「当事者マウンティング」について(その1)

たまたまネットで、「当事者マウンティング」という記事を読んで、しばらく考え込んでしまった。若いころ、この問題をめぐってずいぶん消耗した記憶があるからだ。

一読して、あるカテゴリーの当事者というくくりの中には、多様な要素がある。その差異性を抹消して、自分がそれを安易に代表できると考えて、カテゴリーの外にいる人々に対して「マウンティング」することに慎重であろう、というひどくまっとうなことが書いてある文章だった。自分が帰属すると信じるカテゴリーの内外について、想像力を働かせよう、という趣旨だろう。

ある当事者を名乗って「マウンティング」が成立するのは、その当事者カテゴリーが、多数派であり、強者である場合に限る。筆者もそれを前提にして論をたてている。

しかし、予想がつくことだが、この文章には、共感とともに多くの反論が寄せられることになった。ある専門的な文脈では、「当事者」とは、少数派や被差別者、被抑圧者ことを指す。そういう文脈を前提にすると、「当事者マウンティング」という造語を持ち出すことは、結果的に、ようやく声を上げ始めた当事者に対する攻撃の武器となりかねない、というのがその趣旨だろう。

これは、一見、とても良心的で誠実な批判のようにも思える。しかし、僕には、ある種のステレオタイプに見えてしまう。「当事者」とは、ごく一般的な言葉である。少数派の当事者に限定的に使用するのは、特別に専門的な使用法だ。この反論は、自分の専門の外部への想像力を欠いたものなのだ。

さらに、著者の意図はともかくとして、これが「敵を利する」という判断。その判断の当否はともかくとして、少なくとも、この決めつけが、自分の政治的な見取り図の外部への想像力を欠いているのは間違いないだろう。

つまり、特定の「専門性」「政治性」に閉じこもった、とても息苦しい思考なのだ。筆者の文章は、ふつうに読みさえすれば、そうした狭い議論や感覚を、外に開いていくためのきっかけになりうるものだと思う。しかし、ある社会学者は、「違和感しかない」という一言で、切って捨てた。ほとんど反射的な反応なのだろう。旧世代としては、ネット社会の功罪ということを、つい考えてしまう。