大井川通信

大井川あたりの事ども

『カセットテープ少年時代』 マキタスポーツ×スージー鈴木 2018

「80年代歌謡曲解放区」が副題。BSテレビでの二人の対談番組の書籍化。

サザンやチェッカーズユーミン松田聖子など、80年代当時に爆発的に売れて、時代の音楽としてすっかり耳になじんでいるけれども、語られることが少なかった歌謡曲を、縦横無尽に語りつくしていて爽快だ。

当時でいえば、吉本隆明清志郎を論じたり、竹田青嗣が陽水の評論を書いたり、思想家たちが自分の手持ちの理論を使って、外から音楽を批評の材料にしたことはあった。その場合は、ここに時代の本質的な表現がある、という大げさなスタンスになる。

しかし、この本では、音楽としての側面を技術的に細かく扱うとともに、歌詞の世界についても、著者たちの個人史をふまえ、社会の動きとからめてていねいに語られる。そして、80年代のすぐれた楽曲が、いかに新しい内容と仕掛けをもった魅力的なものだったかを訴えっている。

こんなことができる著者たちの能力と情熱が、とてもうらやましい。僕も80年代の多くの曲を繰り返し耳にして、その魅力に十分気づきながら、それが何に由来するか、語る言葉をまったくもたなかったから。遅ればせながら、音楽や楽器の勉強を始めたい、と思ったくらいだ。

ところで、マキタスポーツは、荒井由美の「瞳を閉じて」について、こう話す。

 

「遠いところへ~」の、だんだんメロディーが飛翔していく。あの、狭かった視野が、ビュワーっとパノラマに広がるような感じ。カメラがぶわっと飛翔して、俯瞰する感じ! 詞だけを抜き出したら、そんなにたいした詞じゃなく思えちゃうんですよ。だけど音文一致感が凄いんです。

 

実際に曲を聞くと、彼の言うことがよくわかる。言葉だけでみると平凡なイメージが、メロディーの力と一体となることで、特別の高揚と感動をもたらしている。こうした「音文一致」の仕掛けが高度化すると、言葉だけの現代詩は置き去りにされてしまうだろう。すくなくとも、楽曲の歌詞に対して、おおきなハンデをもつことになる。

僕が現代詩を読み始めたのは、80年代の初めだった。個人的に、このハンデの存在が気になってしかたがなかった記憶があるが、それがちょうど歌謡曲の高度化の時期と重なっていたからだろうと気づかされた。