大井川通信

大井川あたりの事ども

とあるブックカフェで

近在の集落に面白いブックカフェがあると聞いたので、訪ねてみた。真新しい住宅街に囲まれて、ひっそりと鎮守の森と集落が連なる路地がある。その突当りに、蔵を改装したカフェがあった。

ご主人と奥さんが、主に休日に開いていて、お茶を飲みながら、棚に並んだ本を自由に読める場所だ。二階には、絵本が置かれた子どものコーナーと、ギャラリーがある。

ご主人は、この家で生まれ育って、蔵の二階は自分たち兄弟の勉強部屋として使われていたらしい。子どもの頃、周囲に広がっていた里山は、次々に新興住宅地に生まれ変わって、今では旧集落を飲み込む勢いとなっている。林は、家の裏手の斜面にそってわずかに残るばかりだ。集落の古くからの住人である彼が、住宅街の人々をどんなふうに見ているか気になった。

僕は、近在の別の里山を開発した住宅団地に住み着いた人間だ。里山の地形を変えて、それまでの歴史を強制終了させて出来た土地に住む、という後ろめたさはある。旧集落を歩いて、その歴史に浸ろうとするのは、罪滅ぼしの気持ちからかもしれない。ただ、住宅団地には新しい家族たちの生活と歴史が始まっている。旧集落の歴史と切れているとはいえ、それがまがい物の生活や歴史とはいえないだろう。

人間関係ができる前から、性急に理屈っぽい持論を展開してしまうのは、僕の子供じみた悪い癖だ。音楽好きで劇団にも長くかかわってきたというご主人は、穏やかな表情で対話に応じてくれる。

その場では話さなかったが、僕には逆の立場の経験もある。東京郊外の実家の隣には、「原っぱ」と呼ばれる雑木林の空き地があって、勝手にゴミを燃したり、子どもが遊んだり、我が家の小さな里山みたいに使っていた。それが今では数軒の住宅に変わっている。

切断は仕方がない。人間の暮らしは力強く再スタートしているのだ。若い家族には、新しい家を手に入れた喜びはひとしおだろう。しかし、同じ土地の形式的な利用の継続というだけではなく、やはり、なにかもっと実質的につながるものがあってほしい。たとえば、かつてこの場所にあった「原っぱ」で、数十年にわたってある家族の営みがあったことを、伝えたいとも思う。まっさらな土地で暮らし始めた家族にとっては、知りたくもない余計な情報なのかもしれないけれど。

ブックカフェの近くの公民館前の広場には、垂直にそびえるロケット型の遊具があって、子どもたちがロケット公園と呼んでいることは、以前から知っていた。今回久しぶりに訪ねると、老朽化した遊具はすでに撤去されている。それがアポロ計画の時代の空気を伝えていることすら、忘れられていたのだろう。

そんなことまで考えると、すっかり話はまとまらなくなってしまった。ただ少なくとも僕にとって歴史は、紙に書かれた史実ではない。人々の、とりわけ自分自身の、喜びや祈りや喪失感とともに、今この場に立ち現れるリアルな遠近法のことである、とまとめておくことにしよう。