大井川通信

大井川あたりの事ども

傷を負うということ

数年前、地元の自治会の役員を引き受けたことがある。なり手がなくて、仕方なくしたことだが、自分が歩ける範囲に責任をもつ、という大井川歩きの原則には適ったことだと無理に納得していた。結果的には、旧集落の役員とも知り合いになれて、よい経験をしたと思う。

一年の最後の頃には、ともに苦労した役員さんたちと親しくなって、公民館で飲み会のようなことをした。比較的新しい住宅街の自治会だから、僕より若い夫婦の参加が多い。その時、妙な話だが、猥談で盛り上がった。今になってみると、考えられないくらいあけすけにそれぞれ夫婦生活のことなどを告白しあって、笑い転げた。

職場などでのセクハラ話とは違って、不思議なことに、とてもすがすがしい感じがした。遠く昔の村の寄り合いとか、若者組とかの宴会が、もしかしたらこんなふうだったかもしれない。今の住宅街では、お互いの経歴や職業などは、まったく違うだろうし、興味関心もバラバラだろう。ただ、「性」に関することならば、互いに対等に語りあうことができる。

先日、その時役員仲間だった奥さんと、偶然顔を合わせた。彼女には、当時、小学生と幼稚園の可愛い姉妹がいて、行事などにつれてきていた。そのお姉ちゃんが車椅子に乗っている。あんなに元気に妹と走り回っていたのに。彼女は娘さんといっしょに、完治という奇跡を信じるという。僕は絶句するしかなかった。

僕たちは、傷つきやすい肉体をたずさえて、もろく壊れやすい関係の中を生きている。人とのつながりを広げて、時間をかけて生きることは、それだけ大小の傷を受け、壊れやほころびに耐えることを意味する。

しかし、このどうにも受け入れがたい事実が、力強い希望や祈りや奇跡を生みだすのだろう。