大井川通信

大井川あたりの事ども

虚栄心の力を否定するものは虚栄心しかない

サマセット・モームの『英国諜報員アシャンデン』(1928)から。

「魂を悩ます感情のなかで、虚栄心ほど破滅的で、普遍的で、根深いものはありません。愛以上に破壊的です」とアシャンデンは語る。だから、ある一つの虚栄心の暴走を止められるのは、また別の虚栄心だけだと、彼は指摘する。

たとえば、人を暴力で支配して権力者として崇拝されたいという「虚栄心」を持った人間を改心させられるのは、人々と平和を愛するという聖人として尊敬されたいという「虚栄心」の力しかない、というわけである。

若いころ、何かの本で、老人になって、異性に対する欲望は衰えても、名声欲は衰えることはない、ということを読んで、あまりピンとこなかったのを覚えている。そのころは僕も人並みに、恋愛感情や性的な欲望の渦中で、それに振り回される苦しさを味わっていたから、それ以外の承認欲望など二次的なものと思っていたのだ。

しかし、今の年齢になってみると、人から認められることへの感覚は、むしろ鋭敏になっている気がして、承認を求める欲望が人間の根底を貫くものであることを実感するようになった。まさにモームが書くように、「破滅的で、普遍的で、根深いもの」なのである。