大井川通信

大井川あたりの事ども

『最後の吉本隆明』 勢古浩爾 2011

読書会の課題図書で読む。僕より少し若い人による選定。世評の高い吉本を知っておきたいという動機からのようだった。もし吉本コンプレックスというものがあるなら、そんなものは必要ないことをいいたくて、多少力を入れて読んでみた。

吉本の忠実な読者による本で、まだ吉本が存命中に書かれたみたいだから、まるで吉本へのラブレターのような本になっている。著者自身は吉本論として異色であると自負しているが、70年前後に吉本に夢中になった世代の平均的な感覚を反映している気がする。主要三部作の理論はさっぱりわからない。ただし左翼の権威をまっこうから批判する姿は痛快だ。運動や知識に染まっていない、ただの人間の価値を主張するのには目が覚める思いがするし、自分の存在を認めてもらった気がする。

しかし、この本で吉本自身のことが本当によくわかるかというと、それはまた別の話だ。吉本の主張や思想について、「空前絶後」「誰もいったことがない」「凡百の知識人と次元がちがう」等の、吉本の唯一無二性を断言する飾り言葉が、論証抜きに繰り返される。これを省けば、本が三分の二くらいの厚さになってしまいそうだ。

吉本にももちろん、良い所と悪い所がある。吉本の忠実な信奉者は、吉本の悪い所をグロテスクに引きのばして身にまとってしまうところがあるみたいだ。吉本の「無敵性」や唯一無二性を強調するのは、吉本本人がそういう言い方を好んだことに原因があるだろう。

吉本の弱点として、今の時代からみると、他者との議論が苦手なところがある。他者からの批判を人格攻撃と勘違いして、自分からもレッテル貼りや人格攻撃で反撃するという、いかにも旧世代の日本人らしいところだ。当時の吉本ファンは、この罵詈雑言を喜んだというが、ふつうの感覚でよめば不快なだけである。しかし著者は、「罵倒句」を長々と引用して、見事な表現である、とベタ褒めしているのにはちょっと恐れ入る。

吉本への思いはわかる。しかし、これでは、かんじんなところで吉本の精神と背反しているとしか、僕には思えない。僕にとっては、自分の頭で考えろ、というのが吉本からの一番のメッセージだ。自分が現にいる場所で、可能なかぎりの努力をして、できるだけ全体的で総合的な認識をつくること。そういう励ましが確かに吉本にはある。

その精神は、吉本の思想を相手にする時でも、同じであるはずだ。吉本の唯一無二性や絶対的な信頼性を言いつのるばかりで、著者が、そういうまともな作業を放棄しているようにしか見えない。それでは、吉本の思想を次代に伝えることすら難しいだろう。

たとえば、著者は「普通の人」や「ただの人」の生き方に価値があるという思想は、吉本以前にはなく、今後もそんな思想は現れないと断言している。しかし、本当にそうか。今の現実に目を向ければ、今の若い人たちの感覚が、まさに吉本の思想と近いことに気づくはずだ。そのことを考えずに、吉本の思想が持つ意味をとらえることはできないと思う。