大井川通信

大井川あたりの事ども

夢の入り口

以前、睡眠時にみる夢について、自分のみた夢日記をもとに考察したことがあった。そのとき自分なりにわかったことの要点は、夢の断片ともいうべきイメージのまとまりは、睡眠時間中にある程度偏在していて、そのうちいくつかを寝起きに一つの夢として統合する、ということだった。

寝ている間、脳はある程度まとまりのある妄想を繰り返している。その一つ一つは、容易に失われてしまうだろう。たまたま寝起きに近い時点の妄想のいくつかが、覚醒した自分に夢として体験されるということだ。

いくつか、というのは、一つ一つの妄想は、連想によってあいまいにつながっているから、寝起き時に現実世界には、ずるずるとつながった妄想が引き上げられるのだ。そんなあいまいな夢の記憶は、現実の力強い活動とともにたちどころに色あせて失われる。

それを記憶するためには、あいまいな妄想のシリーズに無理やりに筋を通して、一つの物語へと仕立て上げないといけない。寝起きの早い時間にその作業をしておけば、夢は安定した記憶となって、あとで記録したりできるようになる。

たとえば、昨日みたゴーン氏の夢でいうと、おそらく車の貸し借りの場面と、ビルで出会う場面、幼児をあやす場面というのは、ゴーン氏をめぐる三つの別々の妄想なのだと思う。ジョットコースターの場面はゴーン氏と関係のない妄想である。寝起き後に、一つのストーリーとしてくみ上げることで、一つの夢として記憶にとどめることができたのだろう。

夢については、ごく最近、あたらしい気づきがあった。寝入りばなに、うとうとしているときだ。ある一つのイメージが頭に浮かぶ。ここまでは、目が覚めているときに、あるアイデアが頭に浮かぶときと大差はない。

しかしその主観的なイメージが、そのまま独り立ちし、客観的なイメージとして僕をとりまく環境となり、勝手に動きだす瞬間を体験したのだ。観念が物質となり、妄想が環境となる。そんな夢の始まりを体験できたような気がしたのだ。

こうして夢の断片が出来上がる。しかし、そのことに気づいたのは、僕がそのまま寝入ることなく、たまたま目を覚ますことができたからだろう。