大井川通信

大井川あたりの事ども

「幻想」を抜けて

自慢できることではないが、我が身を振り返って、つくづく旧時代の凡庸な人間だと思う。いろいろ理屈をふりまわしたところで、自分が実際にやってきたことがそれを物語っている。時代が求める常識を一歩もこえることがなかった。

まずは仕事。生活のため、生きるための呪うべき運命みたいなもので、本音のところで社会貢献とか、自己実現の手段とか考えたことがなかった。

次に結婚。いろんな意味で条件には恵まれていたとは言えないが、ハードルをクリアして結婚することに何の疑問も抱いていなかった。ほぼ当為とか義務とかいう感覚だった。

さらに子育て。子どもを持つことに何のためらいもなかった。望むとか望まないとかいうような選択の意識は皆無だったと思う。子どもが二人なのも、自分が二人兄弟だったからという理由以外なかった気がする。

そして持ち家。これについては、運命や義務というより、自分なりの欲望があったと思う。しかしこれも、戦後の新興住宅街で持ち家を当たり前として育ち、高度成長期の土地神話の刷り込みを受けた結果にちがいない。重い住宅ローンの負担にも躊躇はなかった。

僕にとっては抗いがたい慣習に従ったにすぎない人生におけるトピックを、今の若い人たちは、自由な選択の対象と感じているだろう。主体的な利害計算の意識を働かせることも珍しくはないだろう。

もっとも僕らの時代は、選択の自由が少なかったかわりに、社会の慣習に守られているという側面があった。今は、自己責任論によって、実際には選択の幅がひどくせまくなっているのかもしれない。

いずれにしろ、生活の現場では、時代の幻想にすっぽりとくるまれて生きてきた気がする。新しい世代からは、ずいぶん不自由な生き方にも、甘えた楽な生き方にも見えるかもしれない。

しかし、人生も終盤に差し掛かって、仕事についても多少開き直って取り組むことができるようになった。子育てもほぼ終わって、その責任から解放されるようになった。そして、数日前、住宅ローンをようやく完済して、重い肩の荷を下すことができた。

こんなわけで、ようやく時代の幻想から半歩抜け出して、遅ればせながら自分の生活を取り戻そうという気持ちが芽生えてきている。ブログを書き続けているのも、そのための模索なのだろうと思う。