大井川通信

大井川あたりの事ども

『現代社会の理論』 見田宗介 1996

読書会で、見田宗介の新著『現代社会はどこに向かうのか』が課題本となり、昨年すでに読んでいるので、以前読んだこの本を再読してみた。

20年前には感激して、後書きにある「ほんとうに切実な問いと、根底をめざす思考と、地についた方法とだけを求める精神」という言葉を、その年の年賀状に引用した記憶がある。しかし、今は、一気に読み直して、この言葉に出あっても、以前のようにはピンとこない。ややしらけた気持ちになってしまうのはなぜなのか。

新著を読んで感じた老いや衰えの印象は、この本にはない。50代終わりの人生の充実期を思わせる脂の乗り切った言葉があふれている。

現代の「情報化/消費化社会」は、近代資本主義が生産の側でのみ解き放った「自由」を、消費の側でも解放し、真に「自立」したシステムとして完成した。しかし、「大量生産⇒大量消費」という無限に思えるサイクルの両端には、実際には「大量採取」と「大量廃棄」という資源的、環境的な限界が存在している。この限界を外部に転化したのが「南の貧困」であり、内部に転化したのが「北の貧困」である。我々は、情報や消費の自己充実的な「本義」に立ち返り、自然収奪的でなく、他社会収奪的でもない社会へと転回させるべき時にきている。

今読んでも実に見事なプログラムだと感心する。

しかし、著者自身が、この口当たりの良いプログラムを現実化すべく「根底をめざす」思考に骨身を削ってきたとは、少なくとも新著の成果を見る限り信じることができない。それが、再読してややしらけた思いがした理由の一つだ。

もう一つは、自由で自立的なシステムの暴走とその制御、というスマートな見取り図が、現代社会の危機の本質を尽くしているとは思えなくなった現状がある。直近の危機を招いているのは、無限空間をさまよう抽象的な欲望ではなく、むしろ支配や暴力、自己保身や他者排除などの人間の具体的な欲望ではないのか。巨大化するシステムの前面に、それらが再び、制御不能なものとして登場してきているのだ。