大井川通信

大井川あたりの事ども

大本教と八龍神社(その1)

地元の大井川歩きで、思わぬ場所で大本教の名前を聞いたことがある。

大井とは隣村にある地域なのだが、そこは組ごとに庚申塔が残っており、寺社も多く、古い信仰が守られていそうな集落だ。八龍神社という地図にものっている神社があるのだが、近所の人から聞き取りで、それが大本教にかかわりのある神社だと教えられた。

八龍様は大和家の個人持ちの神社で、大阪にでて大本教の信者だった親戚が建てたものというのだ。なるほど、少し荒れてはいるが、鳥居と石段の上には拝殿と本殿のある立派な構えだが、少し奥まっていて公道に面していない。

大本教出口なお出口王仁三郎が創始した宗教で、戦前に大規模な弾圧を受けており、日本の近代(思想)史でも重要な新宗教だ。その戦前の施設が大井川流域にあったとは。僕は驚き、わくわくした。だとしたら、八龍神社は、弾圧で取り壊されたあと再建されたものにちがいない。

後日、大和家ゆかりの人(先ほどの人の母親)から詳しい聞き取りができて、僕は少し落胆した。この神社は、その人のお祖父さんが建てたもので、直接大本教とは関係のない水神様だという。ただ、大阪に出て大本教の信者になった親戚の指示で建てたものなのだそうだ。たしかに、石の鳥居には、「昭和九年六月吉日建立 医学博士大和良作 世話人大和俊一郎」と刻まれている。大和俊一郎さんが祖父だというから、大本教の信者だったのは、大和良作氏の方だったのだろう。この書きぶりでは、建立の主役は良作氏だったことがうかがえる。

便利な時代になったもので、ネット検索で大和良作氏の情報が得られた。明治33年に長崎医専を卒業し、大正10年に京大で学位を受けている。昭和初期に大阪で性病科の開業医(当時では先駆的)となり、昭和6年に『性病典』という医学書を出版している。その翌年には、まるで畑違いの軍神の伝記『護国の神肉弾三勇士』を栗原白嶺(はくれい)と共著で出している。

ここにきて、ようやく大本教との接点を見つけることができた。栗原白嶺は大本教の幹部であり、戦前の大本弾圧で投獄され、独房で縊死した人物である。良作氏が大本教と関係があったのは間違いない。そうなると、彼の主宰で建立した八龍神社は、本当に大本教と無関係といえるのだろうか。僕はなんとかそれを調べてみたいと思った。