大井川通信

大井川あたりの事ども

世界観のある人

もう慣れてしまったが、近ごろの「世界観」という言葉の使い方には、はじめびっくりして、なかなか違和感が抜けなかった。アーティストの作品や楽曲、個性的なファッションや趣味嗜好について、「世界観」という言葉が乱れ飛ぶ。あの曲の世界観が好きだ、というように。

かつて世界観とは、文字通り世界全体に対する見方だった。世界全体に対する見方なんてものは、本来、普通の人間の手に負えるものではなく、人類が叡智を結集してつくりだすものだ。だから、そんなにいくつもあるわけではない。たとえば以前には、マルクス主義的な世界観と、資本主義的な世界観という、二つの大きな世界観が対立していた。

よく言われるように、マルクス主義の失効とともに、大きな物語の時代が終わり、かわって小さな物語の乱立の時代がはじまる。世界観という言葉の語義変化は、この時代の変化に正確に対応しているようで面白い。

「世界」という言葉は、大きな物語の支えを失い、もはや個人の小さな物語に対応物を見出すしかなくなる。以前だったら、個人的であり、個性的であると思われたものが「世界」と呼ばれるのだ。

テレビを見ていたら、ミュージシャンの内田裕也への追悼コメントで、ある年配の女性タレントが、彼は「世界観」のある人で、と言いかけたので、おそらく独自の生き方のスタイルを持っている、くらいのことだろうと予想した。

しかし彼女は、内田裕也が世界の出来事にも関心があってよく勉強していた、というように続けたのだ。久しぶりに昔の用法を耳にして、むしろ新鮮だった。