大井川通信

大井川あたりの事ども

家族の記憶

父親は四人兄弟の末っ子だった。叔母二人が先に亡くなり、叔父の最期を病院で見届けたあとのこと。病院の玄関口を父親と二人で出て、別の用事があるからと別れた。そのとき父親がつぶやいた言葉が妙に頭に残っている。

もう昔の家族のことを話せる人もいなくなってしまった。そんな言葉だったと思う。その後父親も亡くなって、昭和の初めに東京で彼らの家族がどんな暮らしをしていたかの記憶は、永久に失われてしまった。

父親は渋谷道玄坂の生まれで、あちこち転居したらしい。僕が子供の頃連れられて父親が昔住んだ家を訪ねた記憶があるが、それがどこなのかはもうわからない。

どんな家に住み、どんな風に食卓を囲み、どんな食事をして、家族でどんな会話をしたのか。家族にはどんな習慣があり決まり事があったのか。何万回と繰り返された家族の日常のことは、当たり前すぎて記録に残すことも、人に伝えることないけれども、本当は一人の人間の中で、圧倒的なリアリティをもって消しようのないものだと思う。

あの時の父親の言葉の意味は、そのあと両親が亡くなって、僕にも少しは実感できるものとなった。定刻どおりに帰宅して、食卓で会社の出来事を事細かに話す父親。食後に新聞を広げる姿。食卓にすわる場所。てきぱきとした母親の立ち居振る舞い。そうしたものの記憶は、かろうじて僕と姉が共有するだけのものとなってしまった。

姉が学校を卒業して保険会社で働くようになると、食卓での話に姉の会社の人たちの名前も交じるようなる。会ったこともない彼らの名前の記憶は今でも鮮明だ。その姉もこの春で40年の勤務を終えて、めでたく定年退職となった。姉は実家を離れた僕に代わって、最後まで両親の面倒を見てくれた。心からお疲れ様といいたい。