大井川通信

大井川あたりの事ども

『タイで考える』 今村仁司 1993

5月5日の子どもの日は、僕には忘れがたい日にちだ。恩師の今村仁司先生が亡くなった日だし、親戚で一番お世話になった叔父の命日でもある。一昨年、長男が家を出て独立した記念日でもある。特に今年は、今村先生の13回忌に当たるのだ。

ここ数年、子どもの日には、半ば以上仕事として、地元の大きな神社の祭礼に参加することになっている。この日には、ヤシロもホコラもない野原の一カ所に祭壇が設けられ、野菜や魚、お酒などの供物が捧げられる。宮司祝詞(ノリト)を奏上したあと、順番に玉串(タマグシ)を神前に捧げて拝礼する。祭礼の終了後に、別の建物で直会(ナオライ)という食事会が行われる。

僕は例年この機会に今村先生と叔父の冥福を祈ることにしているが、今年は愛猫ハチについてもお祈りした。偶然だが、連休で帰省中の長男が、ちょうど今日倉敷の自宅へと帰っていった。

昨年から、僕はこの日にあわせて今村先生の著書をひも解くことにしている。今年は、タイ訪問の紀行文と文明論的な考察を含んだ『タイで考える』を選んだ。

帯には「現代日本の思想界を先導する著者の、犀利な省察の記録」とあって、80年代前後の現代思想というジャンルと、その中心人物の一人だった今村先生の業界内での評価が伺えて、隔世の感がある。「思想界を先導する」などという大げさな表現自体が今では成立しないだろう。

実は、この本は、今まで何度か手に取ったものの最後まで読み通すことができなかった。今村先生らしい歯切れのいい文章は楽しめるのだが、近代世界による非西欧社会の包摂という議論が、正論であっても地味で退屈なものに思えたのだ。今村先生は、供犠儀礼の観察を目的に、友人の文化人類学者のタイ調査に同行したのだが、やがて近代化の渦中にあるタイ社会の変動へと関心を広げて、訪問を重ねることになる。

今回は、この本を最後まで目をこらして読み進めることができた。若いころはやはり読みが浅かったと思わざるを得ない。今村先生は、社会哲学者として、アジアの一隅で現に生起している大小の現実について、それを正面から受けとめようとしている。少女売春や少数民族社会主義の現実について、その悲惨を批判的にとらえつつも、近代世界の本質へと視線を貫かせている。理論家として実に骨太な姿勢だと思う。

今、僕の目の前には、近代の爛熟した日本社会のなかで、国家に簒奪され、形骸化し、風前の灯と化した祭礼が取りおこなわれている。今村先生は、この本で、儀礼は「ひとびとが生き死にに関わる何ものかとして実践しているかぎり・・そこには、社会的人間にかんする無言だが雄弁な証言が含まれている」と喝破する。

魚や野菜という捧げもの。声や身振りによる何ものかへの憑依。共同飲食による日常への帰還。虚心にながめれば、ここにも社会的人間についての「証言」の断片が息づいている気がした。