大井川通信

大井川あたりの事ども

哲学カフェに行ってみた

地元で長くやっている「哲学カフェ」があるというので、知人に誘われて参加してみた。おそらく、そういうものを、成立させたり、運営したりするのはとても難しいだろうと予想はしていたが、やはりなかなかストレスのたまる会だった。

一般的な哲学カフェは、哲学的な知識を伝達したり、哲学問題を議論したりする場所ではない。しかし、名称からそう勘違いして参加する人もいるだろうし、哲学好きの参加者が、「高尚な」議論をしだせば、対話の場は収拾がつかなくなるだろう。僕が参加したカフェは、幸いなことに、この弊害は免れていた。

しかし、人間が集まって話し合う場は、どんなものでも参加者にそれなりのストレスを強いるものだ。その見返りとして、組織目標の作成とか、参加者の情報交換とか懇親とかの成果物が与えられる。読書会では、少なくとも、優れた課題図書の読書体験が得られるし、よくすればその読解のための多少のヒントが得られるかもしれない。

しかし、哲学カフェは、話し合いそのものが焦点化され、目的化される。事前の説明で、結論を出すことではなく、問いを深めるのが目的だと通告されるのだ。テーマはその場で与えられるものだから、誰も本気で考えたいと思っているものではない。とりあえず言ってみた、という言葉の応酬が続くことになる。

話し合い自体が快楽となるのは、気心が知れた友人同士や、問題意識や感覚を共有する知人同士の場合に限られるだろう。知識、経験、感覚がバラバラな参加者同士で、一般的な問題についてであれ議論を交わすのは、おっかなびっくりの慎重なふるまいになる。

終わったあと、目の前に座っていた参加者から、「あれでよかったのですかね」と尋ねられた。比較的熱心に発言していた人だが、初めての参加だという。僕も初めてですと答えたが、彼の感想は、言い得て妙だと思った。おそらく彼も、場の「空気を読む」ことに一生懸命だったのだ。