大井川通信

大井川あたりの事ども

『マルクス・ガブリエル 欲望の時代を哲学する』 丸山俊一 2018

NHKのプロデューサーによる人気哲学者マルクス・ガブリエル(1980-)の軽めのインタビュー集のようなもの。読書会の課題図書で読んだのだが、問われるままにあらゆることに一言もの申しているためか、話題があちこちに飛び回っていて、いったい何がいいたいのか、僕にはよくわからない本だった。発言の断片にもあまり新鮮味は感じられなくて、みなどこかで聞いたことがあることばかりだから、なおさら頭に入らない。

ただ、なんとか了解できたことがある。ヨーロッパの「天才」哲学者を持ち上げて、あれこれと勝手な事を喋らせて、それを無暗にありがたがるという日本の出版人や放送人のあり方は、昔から日本人が海外思想を輸入する姿勢の伝統にただしく連なっているように思える。その縮小再生産版という感じだが。

もうひとつ。ガブリエル氏が、かなりあからさまに語ってくれているおかげで、ドイツ人にとっての哲学の意味合いを知ることができたのだが、これこそ衝撃的な内容だった。哲学書の字面を読んでいるだけでは、よくわからないことばかりだ。

「ドイツ人にとっては哲学に呼びかけられるような体験がわりと自然なことなんじゃないかと思う・・・空気としてそういうものがあるんだ」

「哲学は合理的な精神分析とも言える。人は皆、哲学的療法を受けたいはずなんだ」

「哲学はルールなしのチェスだ。格闘技みたいなものだよ。ああでも敵を殺すとかじゃなくて、『技』の方かな」

キリスト教徒が聖書を共有しているようにね。ドイツ人はドイツ観念論でつながっているのです。それは傍から見たら本当に奇妙なことですよね」

「ドイツ人にとってヘーゲルの『精神現象学』やカントの『純粋理性批判』は、ギリシャ人にとってのホメロスキリスト教徒にとっての聖書のようなものだと思ってください」

「それで私たちは厳格な論理的構造を持っているのです。なぜなら現実はまったく統一されていないからです。ドイツは概念レベルでのみ統一されているのです」

日本人にとって哲学は、相変わらず、この本が端的にあらわしているように、外国から与えられる、霊験あらたかなお札のようなものだ。この彼我の違いに向き合うことなしに、日本で「哲学する」などという言葉を安易に使うことはできないだろう。そのことだけは、あらためて実感できた本だった。