大井川通信

大井川あたりの事ども

『ほんとうの道徳』 苫野一徳 2019

学校教育については、次から次へと批判者が現れて、一面的な観点や一方的な思い込みから、正論めいた意見をはく。

なるほど、学校には様々な問題があるだろう。それは、一人の人間を見ても、家族を見ても、地域や企業を見ても、社会や世界をながめても、およそ人間がかかわる事物の全てで不具合や失調が目立つのと、同じことだ。悩み、苦しみながら、多くの学校現場はむしろよく頑張っている方ではないのか。

だから、学校にむかって(だけ)、すっきりした解決策の決定版を得意げに押しつける人がいたら、まちがいなく疑ってかかったほうがいい。著者の苫野一徳(1980-)は、哲学2500年の歴史がすでに原理的に解明したものとして、学校や道徳教育のあるべき姿を提示する。もう結論が出ているのだから、そこを目指すのが唯一の正しい方向というわけだ。

この論法が、およそ哲学的でも対話的でもないことはいうまでもない。できあがった正解があって、それを握っているのは私ですよ、というわけだから。こういう書き方は、読者が自分の頭で考えるチャンスをつぶしてしまう罪深いものだと思う。

著者の主張は、学校で必要なのは「市民教育」だけであり、習俗の価値を教える道徳教育は不要であるというものだ。学校そのものの根本的な使命も、近代哲学が解明した「自由の相互承認」という市民社会の原理の感度を高めることにあるという。

市民教育が必要なのはわかるが、それだけ、というのはどういうことだろう。ここには論理的なトリックが仕組まれているので、それを指摘したい。

習俗の価値というのは限定的だ。異なった習俗同士の間ではかならず争いがおきる。だから、争いの元になる習俗など学校で教えるべきではない。教えるべきなのは、争いや対立を調停する「自由の相互承認」という普遍的な原理だけだ、というロジックなのだが、はたしてこれは本当だろうか。

異なった習俗同士が必ず争いをおこすという前提が間違っている。一つの習俗は他の習俗に無関心である場合も多いし、異なる習俗同士の出会いが、喜びや発見をもたらすこともあるだろう。特定の習俗が、自分だけが普遍的な価値をもつと勘違いした時に、初めて他の習俗との対立や争いが引き起こされてしまうのだ。

例を出そう。著者の考えは明らかに、竹田青嗣(1947-)の哲学に依拠している。それは、哲学という一つの学問のなかの一つの学説として、限定された価値しかもたないものだろう。しかし著者は本書のなかで、疑うことのできない普遍的な原理であるかのように称揚する。すると何がおきるか。

著者はあたかも「徳の騎士」のように、自説に合わないという理由で、道徳(習俗)教育を学校から追放すべしと宣言するわけである。

大井川流域をてくてくと歩き回りながら、僕は声を大にして言いたい。僕らが他者と出会い、他者とともに生きることのベースは、我々の習俗にあるのだと。ささやかな習俗の中にこそ、普遍へと至る芽があるのだと。