大井川通信

大井川あたりの事ども

エピソードが思考する

前々回の記事の『ほんとうの道徳』の書評は、その本をめぐって、若い教育学者の友人と、何回かメールでやりとりしながら考えたことのエッセンスである。メールの分量は、僕が書いたものだけでも、この書評の5倍以上はあるだろう。

僕は専門の学校教育には不案内だから、市民道徳と習俗との関係とか、グローバリズムとローカルな価値との関係とか、概念上の問題にしぼって議論をした。そうすると、どうしても空中戦になってしまって、議論が膠着してしまう。お互いの違いと距離を確認するだけとなってしまう。

そのとき、実際に自分がそのような考えを持つにいたった理由となるエピソードを示すと、議論がしまるというか、もう一つ先の段階へ話がすすむような印象があった。

具体的にいうと、僕の生まれ育った住宅街で大人たちが、刑期を終えた人たちをごく自然に隣人として迎え入れていたエピソードや、苫野さんの師匠格の竹田さんと若い頃に僕が実際に関わって見聞きしたエピソードなどである。

友人の方も、大学の授業や、共同研究の現場のエピソードなどで応戦してくれた。とびきり優秀な小学校教師だった友人は、エピソードを交えて説明したり、議論することがもともととても上手な人なのだ。

少し前に、ドイツの若手哲学者のマルクス・ガブリエルの本を読んだときに、ドイツ人が、哲学(とくにドイツ観念論)に親しんでいて、その語彙が国民統合の基礎にすらなっているという話があって、新鮮だった。おそらく、「自由の相互承認」という言葉なども、生活の中で地に足をつけて使うことができるのだろう。

一方、日本では、よく言われていることだが、外来の思想は、漢熟語への翻訳やカタカナのキーワードによって移入されて、生活の言葉と交わることがない。だから思想や学問の言葉による議論は、日常の実感を離れた空中戦になってしまう。おそらく、その二つの乖離を埋めるのが、思想と経験とが結びついた具体的なエピソードなのだ。

ここで、突飛な連想が浮ぶ。ひと昔前まで、日本において思想の中核を担ったのは、学者ではなく、文芸評論家だった。小林秀雄が有名だが、花田清輝も、江藤淳も、柄谷行人も、竹田青嗣加藤典洋も文芸評論家だった。80年代以降、そうした風景は徐々に変わってしまったから、僕たちの年代は、彼らを手本にしてモノを考えるようになった最後の世代にあたるのかもしれない。しかし、なぜ文芸評論家だったのか。

文芸評論家とは、小説を論じる人だ。小説とは、作家が想像力を駆使して練り上げたエピソードだろう。すぐれた文芸評論家は、すぐれた作家の手になるエピソードを材料にして、人生や社会や時代について新たな認識を示す。 その方法は、生活から切り離された抽象語を学問的なルールにのっとって使用する学者たちよりも、日本社会のリアリティをつかまえる上で優位に立っていたのだと思う。

文芸評論家の没落は、80年代以降、間口を広げた学者たちが、文芸評論の方法を取り入れて、それをもっと上手に使うようになったことが一因であるような気がする。柄谷さんや竹田さんも、文芸評論の畑から学問の世界へと越境していった。

ところで、この仮説は、僕の身近な体験の意味も説明してくれるようだ。僕は、四半世紀くらい続く、哲学書思想書を読む読書会に参加している。この会の中で、議論がかみ合うことや、その成果が共有されたり、蓄積されたりすることはめったに起きない。しかし、お互いの知識も経験も違う市民の読書会は、こんなものだろうと思っていた。

ところが、二年ほど前から、小説を読む読書会に参加して、この認識を改めさせられた。事前に課題レポートを提出させるなど運営方法に工夫が凝らされているためでもあるが、とにかく議論もかみ合うし、思想的に深く細かい内容のやり取りもできるのだ。

参加者の資質や能力の問題ではない。やはり僕たちは、抽象的な言葉が主役となる肩ひじ張った議論よりも、具体的なエピソードをめぐって柔らかに言葉をかわす方が得意なのだろう。