大井川通信

大井川あたりの事ども

涼宮ハルヒのために

京都アニメーションの放火事件は、僕にも相当な衝撃を与えた。無意識のうちにテレビやネットのニュースからも目を背け、新聞でも極力その記事を見ないようにしていたのだ。自然災害や大事件でニュース報道にくぎ付けになることはあっても、ニュースを避けるということは記憶にない。

5年ばかり前、『涼宮ハルヒの憂鬱』のテレビシリーズを初めてみた。たまたま衛星放送の放送日程に気づき、有名な作品だから話の種にというぐらいの気持ちで録画をはじめたのだが、アニメからは何十年も遠ざかっていたから、初回を見たときには5分毎に再生をとめるくらい違和感があり苦痛だった。

そのハードルを乗り越えると、今度は作品が面白くて仕方なくなる。作品の世界の知的で斬新な構成にもひきつけられるし、ハルヒたちキャラクターもその住む世界もいとおしくなる。生まれて初めて原作のライトノベルを読んだし、フィギュアにも手を出した。

その後、京都アニメーションの作品では『けいおん!』や『氷菓』を見たくらいで、とてもアニメファンなどとはいえないし、アニメの制作工程についても基本的なことすら知らない。ただ、必ずしも経済的に恵まれていない環境のなかで、アニメの好きなプロたちが献身的に制作を支えているという話は聞いてはいた。

僕が大学に入学したのは1980年で、その前後は、近代の様々な価値が疑われる時代の転換期だった。それまで自明とされてきた「主体」や「作者」の概念が一番のターゲットとなる。単独で一方的に「客体」に働きかける「主体」や、「作品」のすべてを支配する「作者」の概念に疑いがさしはさまれたのだ。

新しい作品を作るという過程は、過去の様々な作品の要素を取り込んだ、多様な主体のネットワークによる共同作業なのだ。近年、ネットの発達等により、この傾向はますます顕著になっているだろう。

けれど、「作者」や「自己表現」の神話は、予想したようにはその力を弱めなかった。現代美術のようにあらゆる表現の約束事を相対化した分野でも、アーティストの特権性は消えないし、映画のように産業化された分野においても、監督の名前は絶対視される。おそらくこの神話は、特に近代以降において、世界の諸事物を整理し、運用するための欠かすことのできない根本ルールなのだろうと思う。

しかしどんなに不可欠なルールであろうとも、それが虚構であり欺瞞であることに変わりはない。

深夜アニメとして制作された『涼宮ハルヒの憂鬱』は、この作者の特権性という腐臭から遠く離れた場所で生まれた作品であるように僕には思えた。匿名の優れた腕利きたちの協働による作品。

もちろん、僕たちの生活のあらゆる現場は、匿名の協働や分業によって成り立っている。しかし、ほんとうにいいものを生み出そうという志をもって人々が協働し、実際にそれをなし得て、多くの人々に発信することのできる現場は、めったにあるものではないだろう。

そんな格別な現場の人々が傷つけられたことが悲しい。くやしい。