大井川通信

大井川あたりの事ども

『ジュリアス・シーザー』 シェイクスピア 1599

尊敬する批評家柄谷行人出世作は「マクベス論」だったし、柄谷のかつての盟友経済学者の岩井克人の高名な評論は「ヴェニスの商人資本論」だ。ながく演劇の畑にいて公立劇場の館長をしている従兄は、日本の演劇人はシェイクスピアの教養すらないと嘆く。僕の好きな劇団「柿喰う客」の演目には、女優だけで演じる「女体シェイクスピア」のシリーズがある。

そんなこんなで、今までシェイクスピアの戯曲に何度か挑戦してきたが、そのつど挫折して、読み通したことはなかった気がする。そもそも戯曲を読む習慣がないし、古典ならなおさらハードルが高い。今回、ありがたいことに読書会の課題図書になって、ようやく一作を読了することができた。意外にも、普通の意味で面白かった。

ローマの政治家カエサル(シーザー)の暗殺事件(紀元前45年)に材をとった史劇で、書かれたのも日本で言えば信長、秀吉の時代なのに、ほとんど古さを感じない。偉人と言われる人も「一人の人間としては偉くもなんともない同列の人間」という近代的な人間観を踏まえているからだろう。その上で、人間の行動原理について現代でも十分通用する洞察があるから、人物がくっきりとした像を結び、行動は共感を呼ぶのだ。

主要な登場人物であるシーザーとブルータス、アントニーとキャシアスは、それぞれのペア同士よく似た共通点がある。
前者は、名誉と正義という原理に同一化する高潔な人間。しかしブルータスは、「鏡」(他者の評価=おだて)によって操作されるが、シーザーは「北極星」のように動かない。
後者は、自己の利害を重視するリアリストの陰謀家。ただキャシアスは、理性の操作に長けた芝居嫌いの陰気な読書家。一方、アントニーは、感情操作と大衆扇動に長けた芝居好きの陽気な酒豪。
この個性的で対立的な人物たちのドラマを、前兆や予言や予感という小道具をふんだんに使って「運命」という枠組みにしっかり収めている。こうした道具立てや枠組みは、たしかに今では、古臭いものかもしれない。

しかし、目の前の舞台を現実から切り離された独立の世界として構成するために、不可解な象徴(ゼロ記号)が必要であることは、現代の演劇でも事情は変わらない。前兆や予言は、見事にゼロ記号の役割を果たして舞台を賦活している。

「今よりのち、いつの世にも、われらの手になるこの崇高な場面は、しばしば繰り返し演じられることあろう、いまだ生まれざる国々において、いまだ語られぬ言葉によって!」

ところで、シーザー暗殺が後世舞台化して演じられることを暗殺者自らが予言するこの台詞は、舞台の世界を突き抜けて、その後の1600年の歴史を早送りするような特別な仕掛けだ。今なら笑いを誘うような場面だが、当時はどうだったのだろう?