大井川通信

大井川あたりの事ども

『ヴァルター・ベンヤミン 闇を歩く批評』 柿木信之 2019

僕が西洋の思想家の中で、親しみをもって愛読したといえるのは、ベンヤミン(1892-1940)だけだと思う。系統的に主要著作を読んだわけではない。いくつかの著作の一部を、繰り返し読んだというにすぎないけれども、読むこと以上に、いろいろな場面で彼の言葉を思い出したり、反芻したりする機会が多かった。

だから、入門書や解説書の類は、できるだけ買い込んでいた時期もあったのだが、そのほとんどは積読のままである。今回は、メジャーな岩波新書からの出版でもあり、すぐに読んでみることにした。伝記的事実にも触れていて、知らなかった事実も多くあり、比較的読みやすい。著作の解読部分はどうしても難解になるが、はっきりとはわからないながらも、なんとなくイメージが作れて、自分の向き合う現実に応用可能な気がする。やはりベンヤミンとは相性がいいのだろう。

この本を読むと、ベンヤミンが決して書物の中の人でなかったことがよくわかる。彼が向き合った事物を列挙すると以下のようだ。青年運動と教育、言語、翻訳、詩、宗教(シオニズム)、哲学、文学、マルクス主義、都市、戦争、暴力、シュールレアリズム、ラジオ、写真、映画、手紙、亡命、演劇、パサージュ(アーケード街)、収容所等々。

これらは、批評の対象として任意に選択したものというより、彼の人生の道行きの中で否応なく出会い、有無をいわさずに彼にとりついて、彼の首根っこをおさえつけて引きずり回した事物たちだろう。彼が言語と批評を武器にしたのは間違いないが、それは既存の学問や書物の世界内部の有効性とも、ましてや現実世界での有効性とも無縁の、諸事物の全く新しい「翻訳」の試みだったはずである。

だとしたら、この本のように、ベンヤミンの思想を、学問のルールに従い、書物の中に器用にとりこみ、まとめるという作業には、たとえそれが優れたものであっても、どこか虚しい、というか根本的な矛盾や行き違いが生じているように思えるのだ。ベンヤミンの思想の特色を形式的に押さえることは、むしろ現実の事物との格闘の中で、その思想を生きることとは背反した所作ではないのか。

これがとても乱暴な言い草であることは、自分でも認める。しかし、著者が希望するように、この本のベンヤミンの思想の解釈を一つの手引きにして、ベンヤミンの著作に直に当たる人間が出てきたにしても、それでは書物の迷路に踏み迷うだけで、自らの現実に達することなく終わってしまうような気がするのだ。

僕が学生時代は、19世紀のパリを扱うベンヤミンのパサージュ論が話題となり、ようやくその翻訳作業が始まった頃だった。しかし、その当時、思想の流行に敏感な人たちは、僕たちが身近に経験している日本のアーケード商店街のことなど見向きもしなかった。その歴史や意義が社会学者や経済学者によって考察されたり、美術家や社会活動家が実践的にかかわったりし出したのは、ごく近年のことだ。

ベンヤミンは彼の批評の必然から、目の前のパリのパサージュを考察し、それにあらたな言葉を与えようとした。僕たちも、僕らの時代的な必然に促されるとしたら、なじみ深いアーケード商店街の盛衰を考察し、それにかわるモールやネット上の市場にも視野を広げなければならないだろう。

思想家のテクストの読解からアクチュアルなものが引き出せると考えるのは、およそベンヤミン的ではないと思う。