小学生のころの次男の口ぐせは、この言葉だった。ほかの子どもよりも、だいぶしゃべり始めるのが遅かったから、まだしっかり発音できなかったのだ。
「障害」があることで、ずいぶんつらかったり、孤独だったりしたこともあったはずなのに、次男は、一度も学校に行くことを嫌がらなかった。登校の時間になると、ためらわずにあっさりと家を出て行った。
「したたがないから」
次男は、自分のことだけでなく、親同士がささいなことでケンカを始めたようなときにも、さとすようにしてこの言葉を口にした。
ところで、次男が成長して口にしなくなってから、すっかり忘れていたこの言葉が、近ごろ不意によみがえる出来事があった。
今年の5月に家に迎えた猫の九太郎は、死んでしまったハチとはちがって、とてもおとなしい。病気でひっかき傷を作れない妻のために、性格のとびきり穏やかな猫をえらんだのだ。暴れまわることもないかわりに、近寄って甘えるということもない。たいていは、距離をとって、部屋の隅にしずかに横たわっている。
ある夜更けトイレに起きて、リビングをのぞいたときに、暗闇の中からこちらを見つめる九太郎に気づいた。僕は、九太郎のまるい二つの瞳から目をそらすことができなかったのだが、そのとき「したたがない」という言葉をたしかに聞いたのだ。
それ以来、僕は、この言葉を他の生き物たちからも聞くようになった。今朝、近所のため池の脇を通りかかると、水抜きされた池の底のわずかな水たまりに、たくさんのウシガエルが並んで頭を出している。完全に水が干上がってしまったら、彼らはいったいどうするのだろう。
カエルたちは、まったく無表情に「したたがない」とつぶやいて、池の外を見ていた。