大井川通信

大井川あたりの事ども

僕が『生まれる』ときには

生と死は、対の言葉としてよく使われる。でも、生の反対語は、はたして死なのだろうか。いやそうじゃない。生の反対は、「生まれなかったこと」ではないのか。

ある哲学者がそんなことを言っていた。哲学者の言葉というのはたいてい、当たり前にわかっていることを偏執狂的に細かく指摘したようなものが多いが、この言葉はちがう。ざっくりと大づかみに、世界の裏側にまで届くような真実を切り出している。

夜眠っても、昼間に起きた事実が消えることはない。僕が死んでしまっても、僕が生きてかかわった全ての事実は、はじめから無かったことになるわけではない。だから、僕は、僕のいなくなった世界について想像することができる。僕の死は、僕の生の延長線上にある。

しかし、僕は、僕の「生まれなかった」世界を想像することができるだろうか。いったんこの時代のこの場所に生まれて、そこを起点としてこの世界を経験したからこそ、そこに「僕だけのいない世界」を想像することができるのだ。

「生まれなかった」ということは、この起点をもたない、つまり世界のどこにも引っ掛かりをもたない、ということになる。すると、人類のスケールで考えても、世界中のあらゆる時代のあらゆる場所が、僕にとって、等しく無関係なものになるのだ。

21世紀の初めの日本に僕がいない、ということと、紀元前3千年のエジプトに僕がいない、ということの間に、なんら質的な違いはなくなってしまう。それどころか、全宇宙の全歴史が、僕には同じように無関係なものとなってしまう。僕の存在は、無限に広がる時空間に拡散して、文字通り無になってしまう。

この想像は、いつも僕に激しいめまいと恐怖を起こさせる。ふと我に返ると、僕はここにいて、否応なくこの時代のこの場所の空気を吸って生きている。それは確かにやっかいで、いろいろな困難を伴うけれども、心底ほっとできる事実だ。

哲学者は、命あっての物種、といっていたっけ。58年前の今日は、僕が生まれた日。