大井川通信

大井川あたりの事ども

少しだけサガンのこと

この二年ばかり小説を読む読書会に参加するようになって、僕も苦手だった小説を定期的に読むようになった。

何より驚いたのは、僕らのようなごく普通の生活者同士が言葉を交わす素材として、評論より、小説のほうがずっとふさわしいということだった。一見、評論の方が、論理的な議論に向いているみたいだが、この論理に基づく対話というものが、僕たちが苦手とするものなのだ。だから、小説の登場人物たちのエピソードをだしにしたほうが、ずっとかみ合った話ができる。

ただ、少しずつわかってきたことだが、小説を読みあう場合に、登場人物を好き嫌いやストーリーへの感情移入の可否でもって、話が終わってしまいがちなところがある。もちろん、それで構わないし、映画やドラマを話題にするときもたいていはそうだろう。

悲しみよこんにちは』の場合、セシルもレイモンもアンヌも、あくの強い個性的な人物として描かれているから、どうしても読み手の共感を得られにくい。小説の舞台も金持ちのバカンスという特別で狭い場所だ。そのためか、読書会の議論では、やや低い評価が目立っていたような気がする。

僕がレポートに書いたのは、この作家の文章や事物をとらえる目のもつ力、小説の構成の巧みさだったのだが、本当に感心したのは、それらの技術を使って作家のつかみとった人間の本質みたいなものである。

セシルは、たまたま思いついた計画に自分自身が引き回されるが、その計画は他人を巻き込み、予想外の悲劇を生み出してしまう。人間の思いなど一つには確定できないものだし、どんな思いであれ、それが思い通りの結果を招くことはない。それはレイモンにしても、アンヌにしても、同じことだ。

僕自身を振り返っても、なぜそんな選択をしたのかとあとから不可解に思えるような振る舞いで、周囲を深く傷つけてしまった罪深い経験がいくつもある。人間のこのどうしようもない真実に届いている作品がつまらないものであるはずはないだろう。