大井川通信

大井川あたりの事ども

お前はただの現在にすぎない

お正月の間、近所の神社の門前町で餅を焼く手伝いをしていたという吉田さんとの月例の勉強会。今回で二年目に入る。吉田さんは、テレビについての考察を持ってきてくれた。

吉田さんのレジュメに、こんな文章がある。子どもの時、好きなテレビ番組の最終回を見た後に、もう登場人物たちとお別れなのかと寂しくなり、「どうにかしてこういうテレビ番組を自分の手元に残すことはできないだろうかと思い悩むことが度々あった。そこで何かいい方法はないかと考えた末、とりあえず見た番組をノートにまとめ、新聞の関連記事を切り抜き、自分が見たテレビの記録を残すことにした」

やがて手に入れたカセットテープレコーダーで音声を録り、画面を写真で撮って記録するという方法も見出したたために、ほとんど毎晩テレビの記録の編集に忙殺されることになったそうだ。

僕には、そんな発想はまるでなかった。僕は親から厳しくテレビの視聴を制限されていた。チャンネル権は父親にあったから、父親がお風呂に入っているときに盗み見る、というような有様だった。

子どもたちの人気番組も、うわさに聞くばかりで実際に見ることはかなわない。あこがれの世界だったから、まず見ることが先決だったのだ。吉田さんはテレビにどっぷりと浸っていたからこそ、見たものを手元に置いて再現したいという次の段階の欲望に進むことができたのだろう。

 当時、テレビは日常のかたわらに置かれた受像機という箱の中で、チャンネルごとにただ流され続けるものだった。映画や小説のように明確に切り取られ、作品として独立した世界を与えられるものではなかった。お前はただの現在にすぎない、という有名なテレビ評論の題名が示すとおりの存在だったのだ。

だからこそ、その「現在」をいとおしむあまりに、それをなんとか記録して手元におこうという徒労に子どもたちをかりたてたのだろう。たしかに僕の周りにも、『宇宙戦艦ヤマト』の放送を録音し、セリフをノートに書き写していた友人がいた。

その吉田さんも、90年代を境にして、テレビをまったく見なくなったのだという。具体的な理由はまた別にあるようだが、それにはおそらく、テレビが録画技術や編集技術の向上によって「現在」という鮮度失ったことも関係しているような気がする。