50年くらい前の、ハンディサイズの古い文学全集の一冊を200円で買って、椎名鱗三をぼちぼち読んでいる。僕は本に関してだけ、妙に潔癖症で、本当は古本は苦手だ。しかし、この本は、初めてページを開く感触があったから、誰も開いたことのない本だったのだろう。一行も読まれることなく一生を終えるかもしれなかった本を読むのは、なんだか人助けをしたようで、楽しかったりする。
安部公房がエッセイで、どういう意味でかはわからなかったが、椎名鱗三こそ本当の作家かもしれない、といっていたのを読んで、しばらく間が空いていたけれども、手にとって「美しい女」を読み始める。
戦前の貧し時代の青年期のことが、ここでも、あからさまに、たんたんとした口調で描かれている。人間の裸形の真実が、ぶっきらぼうに投げ出されている感じが、僕は好きだ。
主人公が職場の同僚に俳句の雑誌をやるからと偽って呼び出されたのは、非合法に組合を結成するという集まりだった。尻込みする主人公に、オルグに来ていた若い共産党員はこういう言葉をあびせる。
言った本人には悪意はない。本文中にもあるのだが、もうすぐ革命があって、労働者が主役の世界がすぐ手に届くところにあると、本気で信じているのだから。
今でも、政治的な立場や、思想的な位置は様々でも、人間の有り様を軽々しく決めつけ、一刀両断にする言葉が大手をふるっている。理想や本来の姿を語る人間は、それに達しない人や事柄をあからさまにののしる権利があると思っているのだろうか。
一緒にくらす家族の心の中だって、本当はよくわからない。職場の同僚が暮らしで抱える問題など気づかないままだろう。まして、見ず知らずの人間の本当の姿や、自分のかかわりのない現場の本当の事情など、想像さえおよぶものではないはずだ。
僕自身もそのことを忘れがちになるけれども、自戒しよう。