大井川通信

大井川あたりの事ども

葬儀というもの

この年齢となると、いろいろな関係で葬儀に立ち会うことが多くなる。葬儀の間には、死者のことや、葬儀というものについて、思いを巡らすことになる。

信仰が薄くなっている時代には、葬儀というものの形式性が、どうしても気になってしまう。おそらく、人の死というとんでもない出来事に対して、とても釣り合うような何かができる装置ではないのだ。そのことにうすうす気づきながら、どうしようもなくて、なすすべなく、残された者は葬儀という社会的な形式を受け入れ、それで欠落を穴埋めしようとする。

しかしそれだけではない気がする。僕は、人の死に立ち会うたびに、ほとんど共通の儀礼によってそれに向かいあったきた。だから、この儀礼の形式には、僕が個々に死と向き合ってきた経験の内実が血肉化されているのだ。少なくとも、その多くの経験を呼びさますきっかけとなりうるはずだ。

それは僕ばかりではない。参列者それぞれが、死者を見送るというそれぞれの経験の内実を、葬儀の形式によって自然に取り戻し、それらを共同の感情として場所にみたすことになる。たとえ故人を良く知らず義理で参加して談笑を交わしているような参列者ですら、葬儀の形式に触れることによって、自分の肉親を見送った時の経験が呼び起こされるはずだ。

葬儀自体が、僧侶の読経や焼香の手順自体が、何事かをなしうるわけではない。それはまったくの形式に過ぎない。しかし、形式であるからこそ、生者の側の思いと経験をその器に満たすことができるのだろう。何かがなしえるとしたら、この満たされた集合的な思いと経験の力の方だ。