大井川通信

大井川あたりの事ども

作文的思考と読書会芸人

読書会というものがなかったら、僕の作文の量はかなり減っていたのだと思う。長い人生の中で、途切れることなく自分の作文を書き続けることができたのは、少数の友人・知人たちとの読書会や勉強会のおかげだ。

その淵源は、学生時代にさかのぼる。当時、学生運動の残響で、マルクスの著作などを読む読書会が行われていた。いわゆるオルグ(勧誘)の手段の一つだったと思うが、その影響からか、学生同士が自由にグループを作って本を読んだり議論したりする、ということがごく当たり前に行われていた。

だから、卒業後も、職場の内外の知人に声をかけて、ごく少人数の勉強会を立ち上げることを続けたが、たいてい長続きはしなかった。それでも、そのためのレジュメとして、作文を書き続けることができた。

30歳を過ぎた頃、とある読書会に出会った。隔月開催のその読書会に、中断をはさみながらも、現在まで四半世紀に渡って参加することになる。今のように参加者の満足度や発言の機会の平等みたいなものに意識が至らない旧時代の産物だから、課題図書のレポーターの発表がやたらと長く、議論自体は低調になりがちだ。

だから年に一回程度で回ってくる報告者の時に、いかに面白い本を選び、面白い読みを示せるかに心を砕くようになった。読みの補助手段として、マンガを引用してみたり、手品を実演してみたり。そうするうちに、半ば冗談で自分を「読書会芸人」と自称するようになった。自分の表現の舞台は読書会だけだったし、そこでいかに面白く本を読むか、ということに全力をそそいでいたからだ。

比較的最近になって、読書会というものが脚光を浴びるようになってきている。学生運動に出自があるような古臭いものではなくて、SNSを使った新しいコミュニティの一環に位置付けられるものだ。運営方法もずっとスマートで、参加者への配慮もしっかりしている。

ただし、10年ばかり前にビジネス書の読書会を始めた「新参者」が読書会の草分けのような顔でその効用をとく本などを見ると、元祖読書会芸人としては、やれやれという気落ちになる。たんなる嫉妬にすぎないけれど。