大井川通信

大井川あたりの事ども

日本海海戦記念碑をめぐって⑤【記念艦「三笠」と展示艦「沖ノ島」】

★記念碑の足元の海岸には、かつて日本海海戦によって捕獲された本物の軍艦が展示艦として繋留されていた。これを実現させたのも安部正弘であり、その上さらに海戦記念碑を軍艦型で計画した彼の心のうちに迫っていく。

 

【記念艦「三笠」と展示艦「沖ノ島」】

先月の帰省の際、初めて横須賀の記念艦三笠を訪ねてみた。前兆130メートル、排水量1万5千トンの三笠は、今見るとさほど大きな船には見えなかった。

戦後占領軍の命令でデッキの上の艦橋も砲身も全て撤去されてしまい、現在の姿は全て復元されたものらしいが、本物の戦艦の造形は、様々な部材の組み合わせが変化に富んでいて見応えがあった。東郷平八郎が戦いの指揮をとったという艦橋も意外に狭く、そこに立って見下ろすと船がいっそう小さく感じられる。実際の大海原の戦いの現場では、必死の舵取りが行われたのであろうと想像できた。

福岡に戻って、あらためて海戦記念碑の前に立ってみると、この記念碑の鈍重な印象の理由がわかるような気がした。このコンクリート造の記念碑には、実際の船にあるような繊細で細かい意匠が見当たらないのだ。

四角い箱を積み重ねた「船室」に、申し訳のように窓をあらわす丸い枠が並んでいるくらいである。不揃の石が積まれた基壇は、船体をイメージさせるには無理がある。とても進水できそうにない石の船なのだ。

正弘氏が払い下げを受け、津屋崎の海岸に展示艦として据え付けられた沖ノ島(旧アプラクシン)は、全長90メートル、排水量4千トンであり、三笠より二回り小さいと言っても、堂々たる本物の戦艦である。自身が「煩悩」というほどの執着心と尋常でない努力によって、沖ノ島はすでに自分のものになっている。この上、もう一つの模造の軍艦を手にする必要があったのだろうか。

彼はこの船を東の三笠に対する西の記念艦として永久保存する意志を最後までもっていたようだが、実際には腐朽に対する手当もままならなかったようである。娘の内田久美さん(東郷神社宮司)によると、沖ノ島は海岸からハシケで渡れるようになっていて、母親の竹さんが艦内で売店を開いていたという。とにかくお金がなかったから、ということである。

日本海海戦記念碑を建設する時には、いずれ沖ノ島を手放すことになるという不安のようなものを感じていたのかもしれない。実際に記念碑完成の4年後には海軍の命により、沖ノ島は軍用資材として処分されることになるのだ。

その後、県立図書館で正弘氏の自著の『東郷公園と私』を見つけ、次のような記述に出会ったとき、自分の疑問に納得のいく答えを得たような気がした。正弘氏は建設工事の協力を県に依頼しているが、本来建築物は県の営繕課が担当なのだが、「美観」よりも「堅牢」に重きを置いたために土木課に頼んだというのだ。

工事報告には「基礎は岩盤深く切込み構造極めて堅牢なり」と書かれており、正弘氏も東郷公園の山が崩れても記念碑は無事であるほど頑丈なものができたと喜んでいる。