大井川通信

大井川あたりの事ども

日本海海戦記念碑をめぐって⑥【艦橋の上で】

★展示艦沖ノ島の代替物である海戦記念碑は、安部正弘にとっては「見上げる」ものではなくて、司令官として「乗り込む」施設だった。それに気づくには、実際に記念碑によじ登らないといけない。手前味噌で言えば、作文の機動性が本領を発揮した瞬間だった。

 

【艦橋の上で】

ところで、工事報告には「外部司令塔及び展望台」という記述がある。この言葉を見るまで、「船室」の上部が単なる屋根ではなく展望台として作られているとは思いつきもしなかった。よく見ると、壁面には梯子の段が切り落とされた跡が残っている。管理上登れないようにしたのだろう。船室の高さは2メートル程あるから、よほど身の軽い人でないかぎりよじ登ることは不可能だ。

ある朝、私は早めに家を出て、人気のない公園駐車場から脚立を抱えて記念碑を目指した。おっかなびっくりあがった展望台からの眺めは、下からは想像できないほど素晴らしかった。

山頂の周囲には低い木立があって眺望をさえぎっているのだが、基壇を含めて4メートル程上がっただけで、360度のパノラマが開かれるのだ。しかもその大部分は海である。さらに2メートル上の小さな展望台からは、114メートルの大峰山の高さも加わって、大海原を浮遊するような錯覚を覚えた。

真上から見下ろすと、船の形の基壇は疾走する船体であり、砲身は力強くはるか海の果ての敵をうかがっている。ちょうど三笠の艦橋に立ったときと同じような感覚を味わえたのだ。この艦橋に立てば、記念碑が鈍重なコンクリートの船であることを忘れられるであろう。

記念碑という名前に引きずられて、あくまで距離を置いて見上げるものとばかり思い込んでいたのが間違いだった。これはむしろ、記念施設なのである。たとえば、横から見ると、立ちの高い「船室」の壁面がどうにも間延びして見えるのだが、これは展望台の周囲を安全に囲うために必要な高さだったのだ。

まれに城が好きで自宅に不格好な城を作ってしまう人がいるが、彼らが求めるのは見上げるための城なのではなく、城から見下ろす気分、城主としての視線なのだろう。

正弘氏の記念碑も、海戦を勝利した司令官の気分の高揚を永久に我が物とするための装置として設計されたもののような気がする。それは歴史的な事実を記憶に留め、顕彰や追悼を内心の振舞いとして行おうという記念碑の一般的なイメージからは、大きく逸脱したものなのかもしれない。