それなりに長く生きてきて、腑に落ちたことの一つは、人間にはモデル(師匠)が必要だということだ。
僕の信奉するソシオン理論では、「私」を構成する三つの要素のうち、第一のものは「他者の姿」であり、人はモデルの姿を取り込むことで「私」となる。だから、たいていの人間の姿というものは、僕も含めて、周囲の人間たちによく似ている。大同小異というか、みんなボチボチというか。
もちろん、人間の社会は様々な秩序や階層をもっているから、特別なポジションに座っている人には、特別なパワーやオーラが感じられるが、それはそのポジションに由来するもので、中身の人間自体は、たいして変わらなかったりする。
ところが、市井のごく当たり前の人として出会って、当たり前に話したり、関わったりしているうちに、この人はどうも普通でない、尋常でない、破格である、妙にずっしりした手応えがあると思えてしまうときがある。そういう場合、その人の背後には、モデルとなるような大きな師匠の存在がある、というのが体験的な真実だ。
大井川周辺で歩いたり、出会ったり、話したりしている限りでもそういうことは起きる。
村の賢人原田さんも、初めは有機農法に手を出しているちょっとイカガワシイおじさんかと思っていたが、つきあってみるとまるで違う。言葉と振舞いに一本芯が通っているのだ。あとから知ったのだが、20代の頃に世界的に著名なカトリックの神父のもとで修業した人だった。
昨年出会った小さなカフェの主人も、はじめは普通の話しやすいおねえさんとしか思えなかった。しかし、話してみると、していることがいちいち普通でない。自分がやりたいことが自然に人を喜ばすことつながり、そろばん勘定抜きでそれに突っ走っている。僕が大井川歩きで妄想していることを、はるかに具体的に実現しているところがある。しかし、物腰は常識的でとても謙虚だ。
先日も、自分の案出した地元のゆるキャラの着ぐるみが届いたところでご満悦だった。コロナ騒ぎでお店も本業の仕事も大きなダメージを受けているというのに。
知人から偶然聞いたのだが、某大手製薬会社の創業家の孫にあたる人だった。どうやら資産とかは全く引き継いでいないようだが、破格の行動パターンとなるモデルだけは、創業家から受け継ぐことができたのだろう。