大井川通信

大井川あたりの事ども

『スローターハウス5』 カート・ヴォネガット・ジュニア 1969

読書会の課題図書。コロナ禍で読書会がいくつかながれたため、少し間を空けたら、もともと苦手だった小説を読むスピードが、ふたたび遅くなっていた。そういうものだ。

「トラファマドール星人」は、時間を全体としてながめるために、一つ一つの出来事を過ぎ去ることのない永遠の相のもとに見ることができる。この星人に拉致された主人公のビリーは、時間の中に解き放たれて「けいれん的な時間旅行者」として自分の人生の様々な地点に出入りしていく。

こういう時間感受の方法をもつ異星人は、テッド・チャンのSF作品でも読んだことがある。これは人類と隔絶した特殊な方法ではなく、老境に差し掛かった人間(あるいは前近代人)の時間感覚を異星人に投影したものだからだろう。

たとえば僕も若い時は、過去の出来事は四角い箱に納められて、時間順にきれいに並んでいるように感じられた。だから、同じ人に同じ話をしてしまう年長者が不思議だったが、今では、それが自分でも当たり前になっている。そういうものだ。

年をとると、過去の出来事の箱は溶けてつながってしまい、記憶が順不同に押し寄せてくる。いわばこの小説における「地球人」から「トラファマドール星人」へと変貌していくのだが、これが人生を肯定し、幸せに死を迎えられる秘密なのかもしれない。

小説の途中で、繰り返し触れられる中年教師エドガー・ダービーの銃殺のシーンがクライマックスで大きく扱われるのかと思っていたら、一言ですまされてしまった。ドレスデンの空襲の悲劇の描写も、そのほかの時間軸の一見どうでもいいエピソードの中に埋没気味だ。

「トラファマドール星人」にならい任意に並べられた出来事を等価に扱うことが、それらを永遠の相のもとに留めるための方法であると、作者が考えているからなのだろう。ただ、その方法が成功しているかどうかは微妙である。

ところで、ビリーの捕虜仲間のポール・ラザーロは、非力なくせに負け惜しみばかりだが、セリフがとてもかっこいい。「だが、ひとつだけ教えといてやろう。ドアベルが鳴ったら、自分で行かず、だれか別のやつに行かすことだ」
何十年かあと、ビリーの暗殺を仕掛けたのが死んだ友人との約束を守ったウェアリーなら、その有言実行ぶりで見直してあげたい。

読書会の事前課題の一つに、「作中に繰り返し出てくる『そういうものだ。』("So it goes.")という言葉には、作者のどのような思いが込められていると思いますか」という問いがあった。
人間というものが「得体の知れぬ巨大な力に翻弄される無気力な人形にすぎない」という作者の思い、と作中の言葉を引用して模範解答風に答えておこう。偶然戦時に近い状態に陥った今には、特に共感しやすい言葉だ。