大井川通信

大井川あたりの事ども

映画『眼の壁』 大庭秀雄監督 1958

松本清張の原作も1958年(昭和33年)の出版。前年の週刊誌連載中から話題になり、映画化が決まっていたようだ。原作は読んだ記憶があるのだが、内容はまったく覚えていなかった。

大庭監督と主演の佐田啓二(1926-1964)とのコンビは、映画『君の名は』(1953)と同じというだけに、先日観た『ゼロの焦点』(1961)よりもさらに敗戦からの復興期の空気感が伝わってくる。僕自身もまだ生まれていない時代だ。

ヴォネガットのSF『スローターハウス5』に出て来る異星人にとって、時間は流れるものではなくて、その時その時が、永遠の存在し続けるものだった。映画というものは、ある特定の時代の出来事(それが仮想の物語であっても)をタイムカプセルのように保存するものなんだと感じる。そこに封印された時間を、僕たちは、あの異星人のようにいつでも解放させて楽しむことができる。

小説というものも、ある程度そうではあるが、読み手の現在における解読という作業の比重が大きいだろう。一方映画は、再生ボタンを押しさえすれば、観客の有無にかかわらず、所定の時間で過去の時間を見事に再現してくれる。

モノクロのかつての都会の風景。しかしそこに走る高級車のスタイルは、おそらく当時における近未来のデザインを意識したものなのだろう。しかしそれは実現せずに60年たっても近未来であり続けているために、まるで、未来のSFの街並みを見ているようでもある。

この作品でも、交通・通信手段の未発達が、現在とは比較にならない東京と地方との「距離」を生み出している。これが犯罪の背景を作りだしているし、実際に地方を訪れた探偵役が、都合よく事件を解明してしまっても作品のリアリティを損ねることがない。地方は異世界だから、そこに身を置くこと自体が、特別なふるまいや発見を可能にするのだ。

さらに、戦争の混乱期が、戦前と戦後との不透明な「距離」を生み出している。「政界ゴロ」であり闇の犯罪組織の首魁である犯人は、地方と戦前という二重の異界から現れた謎の人物として描かれているが、僕が子どもの頃の1970年代には、まだそういう人物が政界の黒幕として、政界のスキャンダルの度に名前が取りざたされていた。

しかし、そういう時代はとうに過ぎ去っている。もし今、政界に影響力を持つとしたら、ITによって莫大な利益を得ている起業家たちだろうし、彼らの力や富の源泉は、もはや物理的な「距離」ではなく、新技術によってもたらされる「差異」なのだろうから。