大井川通信

大井川あたりの事ども

「自粛警察」で気づいたこと

コロナ禍で、自粛警察という人たちが発生しているそうだ。他県ナンバーの車や、営業している店に対して文句をいったり、公園に集まっている親子連れを警察に通報したりしているらしい。

少し前のことになるが、近所の知り合いの店でも、SNSに「店においでください」と書きこむと、この時節になんだと批判が集まると聞いて驚いたが、ネット上にもその予備軍はたくさんいるのだろう。

おそらくそういう人たちは、自分の目についた自粛に反するような事象には厳しくても、(人目のない場所での)自分のちょっとした反自粛の振舞いには甘いのだろうと思う。報道では、自分が頑張っているのだから、そうしていない他人が許せないのではないか、と評論していたが、そういうものとは少し違うのではないか。

そう考えるのは、自粛警察になる人たちのことが、僕はよくわかるからだ。地方ぐらしで東京ほど切迫していない事情もあって、僕がこの問題で自粛警察になることはなかったが、そう反応してしまう人たちのことは、痛いほどわかるような気がする。そして、なぜこれほど身につまされるのかを考えてみて、長年の自分に対するある疑問について、はじめて答えを得たような気がした。

僕は、他人の大小のマナー違反が気になって、イライラしてしまうタイプだ。他の車のドライバーがスマホに目を落としたりするのを見ると懲らしめたくなる。お店などで障害者専用の駐車スペースにとめたドライバーが健康そうだったりすると、一言文句を言いたくなる。吸い殻や空き缶を平気で道に捨てる人は追いかけて、捨てたものを突きつけたくなる。

一方、自分がそういうことをまるでしないような清廉潔白の硬骨の士なのかというと、全然違うのだ。自分に関しては、ちょっとくらいいいじゃないかと思いがちである。自分が気を付けているから、他人にも厳しいというわけではない。この明らかな矛盾が、我ながら不思議で、自分のなかでもてあましていた。

結論だけ言おう。日本人の行動を規制するのが「世間の目」であることはよく言われていて、僕も十分にわかったいた。しかし、自覚していなかったのは、自分がこの「世間の目」という自粛警察の尖兵だったということだ。

街を歩いたり、車を走らせている時、僕たちは「世間の目」となって、他者たちの行動を監視する。こんなふうにお互いが「世間の目」となった相互監視することによって、社会は一定の方向へと誘導され軌道修正される。

しかし、「世間の目」はあくまで他者を監視するモニターだ。西欧の「良心」のように自己に指令する原理ではない。僕たちは、この監視カメラがないところでは、安心してちょっとハメを外したりしてしまうのだろう。自分が監視カメラだったことも忘れて。