大井川通信

大井川あたりの事ども

不在の重さ

新型コロナウイルスで国が非常事態宣言を出してから、朝は次男を職場まで車で送るようにしている。4月から次男と職場がちょうど同じ方向になったこともあるし、やはり朝の通勤電車の方が混むというから、電車内での密集を妻も心配したためだ。

次男がすわるシートは、後部座席の左側で、運転席から見て斜め後ろになる。朝早いから、ほとんど話もせずに彼はそこでたいてい眠っている。お弁当の買い物があるときだけ、途中のコンビニで目を覚まして降りるくらいだ。

自宅から40分で次男の勤める老人介護施設につき、次男をおろしてから、およそ30分で僕の職場に到着する。僕も朝で少しぼおっとしているから、次男をおろした後も、なんだかまだ乗せているような気でいることがある。

いや、もうおろしたよな。とっさに振り向いたりするが、やはりそこには誰もいない。しかし、そんなときでも、次男がそこにいるという存在感は、すぐに消えるわけではないのだ。いないとわかっても、かえってその不在の空間が、はっきりと次男の輪郭を刻んでいる。

しかし、しばらく走っているうちに、そんな気配が消えてしまって、一人だけの車内でふだんどおりくつろいでいる自分に気づく。

人が亡くなるときも、たしかこういう感じだったなと思い返す。

人が亡くなると、その不在の空白が亀裂となって、その人の存在感をいっそう際立たせるのだ。あるいは、生きているとき以上に。しかし、時間とともに亀裂は修復されて、そこに残るのは思い出だけになる。

昨年から、僕の部屋の棚に、両親それぞれのポートレートを小さな額に立てて並べている。同じく鮮明な笑顔だけれども、15年前に亡くなった父親は、亡くなって2年も経たない母親に比べて、ずいぶん遠くにいるように見える。