大井川通信

大井川あたりの事ども

このごろ夢ばかりみています

このごろ、立て続けに鮮明な夢をみている。しばらく、夢らしい夢をみなかった時期もあるし、みてもほとんど記憶に残らない夢ばかりのことが多かった。

なんとなく眠りの浅さと関係しているような気もする。眠りが浅く、夜中に起きがちだと、睡眠中の無意識の活動が意識のレベルに浮上することが容易になる気がするのだ。だとすれば、身体のためには喜んでばかりはいられないが。

夢はつくづく不思議だと思う。その不思議さの根本を押さえるとしたら、どんなことになるだろうか。

夢には、必ず「自分」がでてくる。年齢も見た目も仕事も人間関係も、全て今の自分とは全く別の状況に投げ出されているにもかかわらず、「自分」だということには疑いを持たない。

家族が登場する場合も同じだ。たとえば、本当の「母親」とはだいぶ顔も雰囲気も違っているのだが、なぜか、有無を言わさず「母親」として表れて、僕もそれを受け入れている。

「家」や「町」もそう。現実の自分の家との共通点はほとんどないが、それでも、何の疑問もなく、僕はその家に帰宅する。夢の舞台となる街角は、なんとなく故郷の町のどのあたりという見当はついている。

これはいったいどういうことなのだろう。

人間は、自分、家族、家、町、友人、仕事という、基本的な図式をつかって、世界を理解している。経験を積むことで、その現実の世界の図式は豊富化し精緻化していく。

夢の世界は、現実と空想、現在と過去とが混乱したイメージの奔流といっていいだろう。そこに投げ出された人間は、とりあえず、基本的な図式を持ち出すことでしか、混乱した世界を受けとめることはできないということなのだと思う。

不可思議なイメージの奔流にむけて、「僕」「家族」「知人」「家」「街」という項目を名指していく。すると、異国の役者が、おなじみの配役で芝居をしているような奇妙な舞台が現れるのだ。