5月22日は広松さんの忌日だから、読みやすそうな短文集を手に取る。書き込みを見ると、2009年に再読しているから、およそ10年間隔で読んでいることになる。この本をもう一度手に取ることはあるだろうか。
柳川時代の住居あとを見ているから、やはりその頃の回想には目がとまる。小学6年生の時には、母親の実家が戦時中隠し持っていた大量の左翼文献に目を通してほとんど暗唱していたというのだから、やはりとんでもない。
物理学を志望していた広松さんが、哲学への専攻に切り替えるきっかけになったのが、浪人中に読んだマッハであり、マッハの影響が広松哲学の独自の着想にも大きかったというのも面白い。マルクスでもヘーゲルでもカントでもなく、マイナーな存在のマッハというところが。
膨大な著述を残し、文体や表現にこだわりぬいた広松さんが、文字文化は近い将来終わるだろうと予想しているエッセイがあって興味深かった。マルクス主義者の広松さんは、人間が共同存在として充実した生活が満喫できる社会の到来を信じていた。もちろん素朴な確信といったものではなく、緻密な哲学的な思索が背景にあるとしても、あっさり言えばそういうことだろう。
真の共同社会への参画が「生きがい」をもたらすようになれば、個人が文字に向き合って、すったもんだと逡巡するようなことは無くなる、という感覚が背景にあるのかもしれない。そう考えると、自分を起点にしてひたすら素朴な作文を書き続ける作文的思考は、広松哲学からはずいぶん遠いものであることになる。