大井川通信

大井川あたりの事ども

論理的ということ(その1: 論理的な人)

ふだんの生活で接しているなかで、この人のしゃべることは筋道だっていて、とても論理的だと思えることが、ごくたまにある。体験的に、そういう人はとても少ない。もちろん、専門分野で論理を駆使するのを仕事にしているような人は別だが、そういう人でも専門外の日常で、臨機応変に論理を使うことは簡単ではないだろう。

いっしょに勉強会をしている映写技師の吉田さんがそういう人だ。6,7年前に出会ってから、そのことが不思議でしようがなかった。

昨年から時々行くようになったバーのマスターも、話し言葉が明晰で、論理的であることに驚かされた。カウンター越しに話す言葉だから、いかついわけでも、厭味ったらしいわけでもない。柔らかい言葉がていねいにどこまでも伸びていって、そつなく話題の全体を説明し、破綻がない。酔客を相手にしても、まったく変わらない。

ある時お客にマスターのお母さんが来ていて、彼が小学生の頃、とにかく本をよく読む子どもだったという話を聞き、これだと思った。どんな謎にも答えはあるものだ。後で聞くと、お姉さんが子ども向けの文学全集を読んでいるのがうらやましくて、それの低学年版をねだって買ってもらい、読んでいたのだという。

吉田さんについても、先日、同じように謎が解けた。僕が手に入れた学習図鑑を得意げに見せていたら、巻末の出版案内にのっている「少年少女世界の文学全30巻」の広告を指さして、あるエピソードを聞かせてくれたのだ。

小学館の学習図鑑は学校の図書館にしかなかったけれど、当時この広告を見て、自分が持っている本のことだから、誇らしかったと。

吉田さんは小学校2年生の夏に複雑骨折をして、病院に長く入院したそうだ。その時母親が、毎月2冊配本のあるこのシリーズを買ってくれて、楽しみに読んでいたという。フリガナがあるとはいえ、内容的にも分量的にも相当なものだ。

これらのエピソードは一見、読書は勉強ができる子どもや、論理的に考える子どもを育てるというような、ごく平凡な真理を指さしていると思えるかもしれない。それに違いはないのだが、僕には、ここにはもっと深刻で決定的な事情が潜んでいるように思えるのだ。

そのポイントは、おそらく小学生ということと、全集ということとの二つにある。