大井川通信

大井川あたりの事ども

論理的ということ(その2:学校と読書会)

近ごろでは、日本の学校現場でも、子どもたちが論理的に考えることを、かなり本気で取り組むようになってきたようだ。これからの学びは、主体的で、対話的であることが宣言されたりしている。

その前提になるのは、論理性ということだろう。自分の考えを筋道だって論理的に表現することができなければ、他者と対話して、実りのある議論を行い、より高いレベルの合意や認識にいたることができない。

そのために、書いたり、発表したりするようなアウトプットが重視されたり、話し合いのためのグループでの活動が中心となったりしている。じかに三角ロジックのような論理的な思考の手順を教えたりするだけでなく、国語の授業で文章の形式的な構造に目を向けさせるようになったのも、言葉の論理的な運用が目指されているからだろう。

こうした取組の成果がどのようなものとなるかは、ことが教育であるだけに、相当の時間を待つ必要がある。全国的に組織的な力学の強く働く教育の世界で、新しい方向が掲げられていることの意味は決して小さくはないはずだ。

ただ、個人的な感覚でいうと、このくらいの意図的な企てによって、日本人の論理性を養うのは、ちょっと難しい気がする。そのくらい我々の体質には、むしろ非論理的なものへの志向が巣くっている気がするからだ。

僕自身は、社会問題のサークルや読書会などで、対等な参加者同士の議論の場にはある程度は多く顔を出した方だと思う。しかし、自分を含めて僕より上の世代の議論下手を骨身にしみて味わってきた。言葉は一方的、暴力的なものに終始しがちで、そのためたいてい後味が悪いものとなってしまう。

やがて、自分より若い世代が中心になると、ファシリテーション等の話し合いの技術が取り入れられるようになり、話し合いとしての体裁は格段に整うようになった。しかし、そこにあるのは心地よい言葉の交換といったもので、論理的な議論とはだいぶ違う気がする。

僕は、議論の場所には、あらかじめ自分なりの切り口の考えを作って、そのメモをもっていくことが多かった。しかし、何を根拠にどういう解釈をとるのか、という自分の主張に対して、その出来不出来にかかわらず、その内側に踏み込んで論評されるということは、経験上ほとんどないといってよかった。

一方僕の側も、他者の主張や意見について内在的に理解して論じようという志向はとても希薄だったと告白せざるをえない。自分の意見を話すのが精いっぱいで、それで十分に満足してしまい、他者の考えには本質的に無関心なのだ。およそ議論むきとはいえないだろう。