大井川通信

大井川あたりの事ども

論理的ということ(その4:回転読み)

前回の議論は、僕に、ある英語学習のメソッドを思い起こさせる。

それは、根石吉久という詩人・批評家の編み出した「回転読み」という語学学習法で、僕もすこしだけかじったことがある。たんなる音読ではなく、ある一文をマスターするために、文末と文頭をつなげて、まるでお経のように連続して何十回、何百回と声に出し続けるというものだ。これは、とても一見、とても異様な学習法なのだが、この学習法の背景には、根石さんの独特の語学に対する考え方がある。僕なりにその要点を紹介してみよう。

言語というものは、本来、それが生活の中で話され、言葉の無数のやりとりが繰り返される「磁場」の中でしか身に着くものではない。「磁場」を欠いた他国の、机上や教室の学習では、本来身につけることができないものなのだ。ネイティブと会話したり、教材を聞き流したりするようなスマートなやり方は、「磁場」なしでは無力である。

そこで、根石さんは、「磁場」に代わるものを人工的に作り出すような学習法を提案する。それが「回転読み」だ。ネイティヴなら幼少期から無数に繰り返す言葉のやり取りを、無理やりに一挙に体験させる意味合いがあるのだろう。ちなみに根石さんの定義によると、「磁場」抜きに机上で言語を学ぶ実践が「語学」である。

もし、論理的ということが、言語と同じように欧米の「磁場」において身に着くものならば、それを欠いた日本では、たとえば教室の中のやりとりだけでそれを学習することは難しいだろう。幼少期からの家庭でも、友人間でも、メディアの中でも、論理的でない話し言葉のやりとりが行われているのだから。

それでは、語学学習における「回転読み」のような、人工的な疑似「磁場」の体験法はあるのか。おそらくそれが、子供向きの文学全集などによって「書き言葉」を大量にインプットするという方法なのだと思う。