大井川通信

大井川あたりの事ども

論理的ということ(その7:作文と大井川歩き)

日本人が例外的に論理性を身につけるための、ほとんど無意識に行われている方法について書いてきた。今回の発見はこれだけなのだが、ここで終わってしまっては、僕の作文らしくないだろう。

獲得したものは、失われていく。どんなに論理を誇った人も、やがてほころびが生じるようになって、勘違いや思い違いによって生活すらあやうくなっていく。そのことをどう考えるのか。

僕自身は、残念ながら幼少期の大量読書を経なかったこともあり、筋道の通った思考ができない。断片的な思い付きや、一時の感情に振り回されて生きてきた。そのことと、若いころから、作文を書いてきたこと、とくに中年過ぎてからいっそう強迫的に作文を書き続けていることをどう考えるのか。

最後に、大井川歩き。自分の生活圏に限定して、歩いたり、話したり、考えたり、調べたり、書いたりしようという思いつきと、論理性の問題とはどうかかわるのか。

村瀬さんによると、ボケといわれる現象は、時間と空間の見当識にくるいが生じることが大きな原因である。今がいつで、ここがどこなのかわからなければ、どんなに言葉の内部でつじつまのあっていることを言っても、それが意味のあるものとして受け取られることはないだろう。世界とのつながりという文脈の方から梯子をはずされたら、論理性はもろいものなのだ。

作文を書くことは、世界に小さな窓を開けて、そのガラスをきれいにふく作業に似ている。そのことで、少しだけ世界がよく見えることになる。論理性に代わるような、漸進的な世界の獲得方法だったのかもしれない。

しかし、言葉と頭による理解は、年齢とともに衰えていく。身体と体験による、土地との関わりに認識の比重を移していくのは、ごく自然なふるまいと考えている。お年寄りたちの生活も、時間と空間の見当識の血肉化した地元の土地や住み慣れた自宅に支えられているそうだから。