大井川通信

大井川あたりの事ども

『ドグラ・マグラ』 夢野久作 1935

読書会の課題図書で、およそ40年ぶりに再読する。ところどころ覚えていて、大学生の時、読み通したことは間違いない。いつか読み直したいと思っていたので、飛び入り参加となる会のために、かなりのスピードで一気に読んだ。

期待以上に面白く、よくできた重厚な小説だった。これほどの作品では、若いころは受け取めきれなかっただろう。議論のために論点のメモを作っておこう。

まず、題材や発想のスケールが大きく、型破りのようで本格的だ。狂気への着目や、精神医学への批判は、近代という時代や理性という価値を相対化するのに重要な視点で、思想的にはるかに時代に先駆けている気がする。

思考は脳髄の機能なのではなく、全身の細胞を通じての関係のネットワークの所産であるという考え方も、今ではむしろ正論だ。

「細胞の記憶」というと荒唐無稽のようだが、DNAの存在を先取りした発想といえるかもしれない。因果応報や輪廻転生を「心理遺伝」の科学で解き明かす、という構えも、東洋思想を巻き込んで雄大だ。

文体や性格の異なるさまざまなテキストを並べた構成も、実に魅力的。新聞記事やインタビュー、調査報告書に遺書、古文書まで。この小説自体が、作中で精神病棟に資料として展示されている患者の作品であるかのような示唆まであって、それなら全体が部分に吸収される入れ子構造ということになる。各テキストの関係はゆらいでおり、次々に新しい解釈が投入される。

このためメインのストーリーはあるかに見えても、どれが実際の現実なのかは一義的に決められない。重要な登場人物である正木博士と若林博士も、別々のテキストで各々が一方的に語るばかりで、二人が現実にからみあう場面はない。しょせんは書かれた文章のつぎはぎであるという小説の可能性を存分に活かしているようだ。必ずしも正解や種明かしのない叙述トリックという感じ。

第一の事件は直方の日吉町、第二の事件は福岡の姪の浜、唐津虹ノ松原が因縁の場所、九大病院が主な舞台と、なじみ深い地元の地名が出て来るのは、それだけでうれしい。

主人公の青年は、ある瞬間以前のエピソード記憶をすべて失った人物として描かれる。明らかに何者かであると推測されながら、その記憶が欠如しているという彼の不安が作品の基調になっている。さらに、二人の対立する博士のそれぞれの言い分によって、世界のありようも大きくゆらいでしまい、主人公の時間・空間の見当識がゆがんでいく描写はリアルでこわい。

しかし、世界から剥がれ落ちてしまうような主人公の特異な境遇と恐怖を、読者がたやすく追体験できてしまうのは、なぜなのだろうか。作品のどこかに書いてあったように、夢中になる、我に返る、現実を取り戻す、という日常当たり前の体験のサイクルが、すでに僕たちをある深淵に突き落としているためかもしれない。