大井川通信

大井川あたりの事ども

『月』( 辺見庸 2018)を読む 

読書会の課題図書。いつものように会合の数日前に読み始めて、ぎりぎり読み切るつもりだったのだが、冒頭を読んで、今回ばかりは参加を断念しようと思った。とびきり読みにくい上に、そういう叙述を選ぶ著者の意図に、まったく賛成できなかったからだ。

しかし、共感も賛同もできないなら、冷めた目で外側からなぞるように流し読みすればいいことに気づき、なんとか読了を間に合わすことができたし、読み物としての面白さにも気づくことができた。感想は、僕の読みに応じて相当乱暴なものになる。

小説は、2016年に起きた「相模原障害者施設殺傷事件」をモデルにしている。作者もそう発信しているようだ。読みながら僕が初めに思ったのは、あの事件をモデルにしてこんなふうにしか書けないのか、という相当ヒドイ否定の気持ちだった。

言葉をもたない重度の障害者の「きーちゃん」を主人公にして、彼の意識を、饒舌な言葉で語らせている。しかもその語彙やイメージは、明らかに作者自身の語彙やイメージや世代的な知識に依存している。作者の言葉と視点を野放図に投げ込んでいるのだから、しょせん「きーちゃん」は作者の傀儡にすぎない。身動きのとれない「きーちゃん」の視点で物語を動かすために、「きーちゃん」は自己の分身である「あかぎあかえ」をあやつるというご都合主義。

言葉を流ちょうに使いこなす小説家が、言葉をもたない重度障害者の世界にどんな風に肉薄するか。小説というフィクションの使命はそこにしかないと思う。しかし著者は、その世界を道具化し、いわば自分の表現の実験場にしている。加害者の側の内面を探るのは、むしろノンフィクションの方がふさわしいだろうし、この作品でも虚構の色の濃い描写には説得力はない。

読書会で、著者のインタビュー記事を紹介されて、著者の意外な狙いを知ることができた。著者は、被害者の存在に肉薄することでも、加害者の思想と対決することでもなく、加害者の思想がいかに現代社会の無意識の価値観に根差しているかを告発することに力点を置いていたようなのだ。

しかし、そんなことは、それこそ政治評論や社会批評でやればいいことではないか。読書会の参加者からは、加害者の「さとくん」の殺人を正当化する思想の「力強い」記述に対して、被害者の側の声と思想が、それに対抗すべくあまりにも弱々しいという不満が出ていた。それはきーちゃんという存在の本当の声に耳をかたむけることでしか、生み出されるものではないのだと思う。

あの事件を離れて読めば、「きーちゃん」と「さとくん」との愛の物語になるのではないか、という意見もあった。施設という特別な空間における、隣り合わせの、生存のために不可欠の、ねじれてつながりあってしかし隔絶した二人の関係。たしかに小説としての魅力は、別の世界からそれぞれを呼び求めるような二人の姿にあるのかもしれない。