大井川通信

大井川あたりの事ども

山懐の斎場にて

ようやく雨が上がったので、コロナ禍のステイホームですっかり重くなった身体を引きずって、大井川歩きに出る。大井川の水かさも増して、流れの勢いも強い。散歩中、小さな水路からもドクドクと水音が響いていて、一歩間違えれば大きな水害をまねく国土であることを実感する。

目標は、旧大井村の枝村に当たる釈迦院にある斎場だ。今は火葬場に斎場という名前がつくことが多い。先日ひろちゃんの出棺に立ち会ったが、荼毘に付された場所を見届けたい気持ちがあったのだ。

かつては今の住宅街に近い場所にあったようだが、今はダムの奥の高台にある老人施設と障害者施設の間の道を上がった突き当りにある。山懐の森林に囲まれた新しくモダンなイメージの施設で、かつて火葬場のシンボルだった高い煙突なども見当たらない。

僕は施設のがらんとした駐車場で、ひろちゃんの冥福を祈った。それから自分のことを考えた。僕も、十中八九、この斎場で焼かれることになるだろう。僕は僕の葬儀の後に喪服を着てこの場所に現れる家族の姿が見える気がした。

僕は妻の顔に目をこらす。あまり今と変わらないようなら、その時は遠い将来ではないことになるだろう。あるいは妻が先で、僕と子どもたちで彼女を見送ることになるかもしれない。なんらかのアクシデントで子どもを先に見送ることになったら。

僕はあえてそんなシミュレーションをやってみた。いくら死が避けられないといっても、それがいつどんな風に起こるかは、まったく予測できない。そのあいまいさが、僕たちが死という運命に向き合わないことの言い訳になっている。

しかし、この場所に、僕が喪服を着て、あるいは棺の中に納まって現れることは、まったく確実なのだ。そのことが別段恐ろしいことには思えないのは、なぜだろうか。不意に斎場の上空に大きなミサゴが現れて、カラスたちが騒ぎ出す。

それから約二キロの道のりを歩いて自宅まで買える。途中、アブラゼミが二匹道に落ちていた。