大井川通信

大井川あたりの事ども

『機械』 横光利一 1930

読書会の課題で読む。僕の中では、横光利一(1898-1947)には芥川に続く知的な作家のイメージがあって、いつかしっかり読みたいと思っていた。それで、今回新潮文庫の短編集を読み通したけれど、どれも面白かった。読書会に感謝。

しかし、その中でも『機械』はとびぬけて面白い。その理由を考えてみる。(短編集の中で『機械』に似た作品は、同時期に書かれた『時間』で、これも魅力的だ)

町工場を舞台に4人の主要登場人物たちの人間関係を描いているのだが、そのキャラクターの配置と描き方において、リアルなねちっこさと戯画的なデフォルメの具合が絶妙だ。戦後詩の傑作「僧侶」(吉岡実)みたいなユーモラスな物語詩として読むこともできる。

題名の「機械」は実体的なものではなく、今風にいえば、構造とかシステムとか言われるもののことだ。主体ではなく構造が主導権を握っているという関係主義的な発想が新しい。

「一切が明瞭に分かっているかのごとき見えざる機械が絶えず私たちを計っていてその計ったままにまた私たちを推し進めてくれている」

善意の人「主人」、粗暴な「軽部」、謀略の「屋敷」、理知的な「私」という組み合わせの中で、何といっても魅力的で、作品の要になっているのは「主人」の人物像だ。

この人は、工場で稼いだお金を持つと、ことごとく失くしたり、他人にあげたりしてしまう。しかし彼の無垢な魅力が、職人たちをひきつけ、工場自体を成り立たせている。昔の共同体において、首長となるべき人物は、財産を投げ出し気前よく振るまう必要があるという話を聞いたことがあるが、「主人」の造形には、そんな人類史的な根拠がある気がする。

この作品が発表された昭和初期は、マルクス主義プロレタリア文学の影響が強かっただろう。その観点でいえば、町工場とはいえ、主人は労働者を搾取する悪辣な資本家として描かれなければいけないはずだ。しかし、ここでは、彼は空虚で底なしの中心であり、利潤を蓄積するのでなく、ことごとく他者にふるまってしまう。労働者をその「鋭い先端」で追いつめるのは、資本家ではなく見えざる人間関係である、という設定には、当時の思潮へのアンチテーゼの意味合いがあったのだろう。

工場の中で、「主人」と「軽部」と「私」という全く異なる個性の間に均衡が成立しかかったときに登場して、安定をかき乱すのは「屋敷」である。「私」と「屋敷」とはよく似ていて、いわば「私」のドッペルゲンガーだ。分身同士は、互いにライバルとなり不均衡をどこまでも亢進させてしまう。最後に「屋敷」が謎の死を遂げるのも、物語的には必然だったのかもしれない。