大井川通信

大井川あたりの事ども

『思索と体験』 西田幾多郎 1914

岩波文庫の新刊で西田幾多郎(1870-1945)の講演集が出ていたので、手に取って買おうとしたが、家に西田の読み残しの本が何冊もあることに気づいて思いとどまった。それで初期の論文集『思索と体験』の岩波文庫版を読んでみた。読み通したのは、今度が初めてである。

哲学書は苦手でなかなか手が出ないが、なぜか西田幾多郎の文章にはすっと入っていける感じがする。教養と見栄のために無理やり読むというのではなくて、なんとなく読むこと自体が楽しい。文章が美味しい。

一つには、僕が若いころ真面目に取り組んだ廣松渉と文体や発想で共通点があるから受け取りやすいのかもしれない。今回も西田が何を言いたいかということは大方わかるような気がして、途中で論理の迷子になるようなことはなかった。

おそらく、これからは読書もますます自分のためだけのものになるだろう。廣松と西田だけは読み続けようと思う。

この論文集には、巻末に短いエッセイが入っていて、それも面白かった。小泉八雲を論じて、八雲は「永遠の過去から永遠の未来にわたる霊的進化の力」を認め「万物の背後に霊の私語を聞いた」のだと述べる。なるほど。

「『国文学史講話』の序」には、本の話は全くなくて、子どもを亡くした親の真情が切々とつづってあって、西田の人柄がしのばれる。

「ただ日々嬉戯(きぎ)して、最後に父母の膝を枕として死んでいったと思えば、非常に美しい感じがする。花束を散らしたような詩的一生であったとも思われる。たとえ多くの人に記憶せられ、惜しまれずとも、懐かしかった親が心に刻める深き記念、骨にも徹する痛切なる悲哀は寂しき死をも慰め得て余りあるとも思う」

花束を散らしたような一生!  なんと美しい言葉。