大井川通信

大井川あたりの事ども

『学校が泣いている』 石井昌浩 2003

2000年前後の東京の国立市における公立学校の現状について、現役の教育長という立場からのレポート。この報告の30年くらい前に、「文教地区」国立で教育を受けたことをそれなりに誇りに思ってきた自分には、刊行当時読んで、ショッキングな内容だった。

初読の時にも感じたのだが、著者が取り上げる事案は事実だろうし、それに加える解釈や判断も間違っていないと思うが、惜しいかに突っ込み不足の印象を受ける。長く教育行政の仕事に就き、実際に教育長として現場に向き合っているなら、もう少し踏み込んだ分析を加えて欲しかった。

著者の見立てはこうだ。戦後の国立には独自の課題をこなしてきた市民運動の歴史がある。その中で学校教育には、「子どもが主体」という思想と、何でも「国家権力対市民」という構図で理解するイデオロギーが支配的になった。それを担うのは、教職員組合と保護者と地元の一橋大学のエリートとのつながりである。この結束の元で、国旗・国歌問題への強硬な姿勢や行き過ぎた平等主義、子ども不在の理想論が生まれる。

著者は彼らを、全能の市民=ゼウスの末裔と呼ぶ。そう実感せざるをえなかったのはわかるが、こんな大げさな命名は単なるレッテル貼りにしかならない。

著者は2000年前後の国立の現状を、戦後民主主義や戦後教育の一貫した結果であるかのように論じているが、これは違う。たとえば、僕が経験した70年前後の学校現場では、規律も順位付けも体罰のような厳しい指導もあった。おそらく小学校では、全生研の集団主義教育も盛んだったはずだ。当時は、国立に限らず、従来の学校教育の手法が機能する社会背景があったということが大きい。

80年代以降の社会の変化に対応できなかった学校現場が、従来のイデオロギーにすがることでそれがいっそう空転し陳腐化し、いよいよどうしようもなくなったというのが、執筆当時のある意味戯画的な状況ではなかったのか。すべてがイデオロギーが原因であるかのように論じていては、現場の本当に困難な問題はとらえられないだろう。