大井川通信

大井川あたりの事ども

『英語化は愚民化』 施光恒 2015

扇情的な題名に反して、というか内容はまさに題名のとおりなのだが、実にまっとうな議論が展開されている。語学の専門家ではなく、政治学者の手になるもののためか、目配りが広く近代化のメカニズムからの立論には説得力がある。

大きな風呂敷を広げたうえで、シャープにポイントを切り出し、わかりやすく料理する手腕は、内田樹の最良の本を読んでいるかのようだ。

その内田樹から教えられて、僕も、創造的な思考は母語によってしかなされない、英語化ではむしろ国際競争力はおちてしまう、ことには気づいていた。しかし、著者はこの事態をもっと普遍的にとらえて、警鐘を鳴らす。

そもそもヨーロッパの近代化自体が、ラテン語という「普遍」をそれぞれの母語に翻訳して知的な観念を「土着化」し、各国に活力ある公共空間を作り出すことでなしとげられたものだ。日本の明治の近代化も、それを徹底的になぞっている。

一般には人間社会の進歩は「土着から普遍へ」の一方通行と考えられており、昨今のグローバリズムもその発想の延長線上にある。しかし、近代化自体が実際には「普遍から複数の土着へ」というプロセスで生み出されていたのだ。

これを踏まえて、著者は英語化の問題点を丹念にひろいあげる。翻訳が衰退し、日本語の「現地語」化がすすめば、日本人の創造性の基盤が失われる。英語にアクセスできる人とできない人との間に知的格差が生まれ、後者からは人生の多様な選択肢が失われて、社会全体の連帯感も活力も失われる。言語は単なる道具ではないから、日本語が形づくってきた知性、感性、道徳観に混乱をきたしてしまう。

総じて、英語化は従来の日本の良さや強みを奪ってしまう。日本が目指すべきなのは、「翻訳」と「土着化」の文化を継承発展させ、非英語圏の人たちの母語による国づくりのモデルとなることである。

単なる批判に終わらない将来展望には、うならされた。閉塞感が広がる日本には、元気が出る前向きな提案だ。英語化に急ぐ政治家や財界人、教育関係者はぜひこの本を読んで、いったんは立ち止まってもらいたいと思う。