大井川通信

大井川あたりの事ども

『一篇の詩に出会った話』 Pipoo編 2020

本当は図書館が苦手だ。図書館の本と上手につきあうことができない。家には購入して読んでない本がたくさんある。たまに図書館で借りても、たいていは読まずに返すばかりだったり、たまに読んでもそれが良くて結局買ってしまったり。

本好きなくせに、そもそも本とうまく関われていない気がする。本に振りまわされ、本を持て余しているのだ。

自分ならふだん買わない本をささっと借りて、借りた本だから、気楽にささっと目を通して、すっといい気分になって、ささっと返す。そんな理想的な図書館の本とのつきあいを、この本ではめずらしくできたのが、うれしかった。

うれしかったことが、もう一つ。

詩とはなんだろうか、ということが前から気になっていた。好きな詩、心にひっかかる詩句はたしかにある。だけど、あらためて詩集を手に取ると、たいていそこには自分にはどうでもよかったり意味不明だったりする言葉が並んでいるのだ。

この本のインタビューに登場するのは、小説家だったり歌人だったりブックカフェのオーナーだったりするけれども、詩の専門家ではない。人生のある時期に、ある詩人のある詩に偶然に出会って、その詩の言葉が大切なものとなって、その言葉をたずさえて生きるようになった経緯が、ていねいに語られている。

こういうことが正直に語られることは、あまりなかったように思う。ふつう人は、意識的に詩などは読まないし、たまたま目に触れたものを、密かに大切にしているだけだからだ。詩の文学全集を読んで、その中から比較検討の上自分が納得する詩句を選び出す、なんてことをするわけではない。

紹介されている詩は、僕には、説明を聞いても、どこがそんなにいいのかわからないものばかりだった。それは仕方のないことなんだと思う。その人の人生を生きることなしにその出会いの意味が本当にはわかるはずはないのだから。

僕たちは、その時々、生活の断片、感情の断片を生きている。詩というものは、言葉の断片だ。その断片と断片とが、ジクソーパズルのピース同士が上手くかみ合うようにつながる瞬間があって、それが詩との出会いなのだと思う。

しっかりかみ合ったと思えた偶然の体験をベースにして、はじめて言葉の断片に命を通わせ、生きた言葉として対話を繰り返すことができるようになる。他者の言葉を通じて、世界を広げることができる。その出会いがなければ、どれほどの大詩人の名作といえども、文脈を欠いた言葉の破片としか受け止められないだろう。

僕にとって、高村光太郎の「秋の祈り」がどれほど特別なものなのか、人にわかってもらうことは難しい。そういうものだし、それでいいのだと思う。

この本を読んで、あらためてこんな発見をすることができた。この素敵な本を編んでくれた編者たちに感謝。