大井川通信

大井川あたりの事ども

芭蕉と「流域思考」

読書会のために、おくのほそ道をざっと通読する。教科書などでさわりの部分を読み込んだりしたが、この有名な古典の全貌に触れたのは初めてで、達成感は大きい。

何より、どういう旅だったのかその内容がよく分かった。次に芭蕉(1644-1694)の人となりがわかった。息づかいまで感じさせるような文章のうまさが圧倒的だ。現代語訳よりもダイレクトに心に響く。有名な句が並ぶが、読み直して、考えるところもあった。たとえば、次の句。

五月雨をあつめて早し最上川

若いころ読んだ注釈書で、五月雨を集める、というのは観念的な把握であまり良くはない、つまり頭でこしらえた理屈だ、という解釈があって、なるほどそうだなと思っていた。

近年、大井川歩きと称して、身近な川沿いに土地を歩くことを続けてみて、また、あらゆる土地を川の流域として見る「流域思考」に触れたりして、僕の中で川に対する見方がかなり変わって来ている。

現代人にとっては、川は水が流れる水路であり、周辺の土地から堤防やコンクリートの壁で切り離されており、そこから水があふれだすことなど、あってはならない異常事態だ。

しかし、本来川は、流域の水を集めて流れ、雨量が多ければ流域にあふれるというように、周囲の土地と一体のものだったはずである。そもそも平野のほとんどが洪水から生じた沖積平野であり、肥沃な土地はあふれた川の水の賜物だったのだから。

なるほど現代人にとって、川が雨を「集める」というのは、思い付きの観念的な比喩に感じられる。しかし、芭蕉の時代の人々にとって、それはごく自然で当たり前の発想だったのではないか。それをふまえて、急流の川下りの体感を「早し」に込めたのではないか。

 

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