大井川通信

大井川あたりの事ども

働くことについて(その1 六反田)

★2006年の玉乃井プロジェクトが、僕の作文にとって転機になったことを以前に書いた。プロジェクトの成果物である日本海海戦記念碑をめぐる文章は、以前に紹介している。プロジェクトと並行して開始していた9月の会で、もう一つ、自分にとって大切な文章を書くことができた。前年に亡くなったばかりの父親と労働についての文章だ。以下、3回に分けて紹介する。

 

【六反田】

父親が晩年、上野英信の著書を愛読していたのはなぜだったのだろう。偶然自分の息子が移り住んだ土地にゆかりの作家だということも理由の一つだろうが、それだけではないような気がする。いつも本棚一箱分しか手元に置かなかった蔵書の中に、上野英信ルポルタージュだけでなく、その家族のエッセイまでもが残っている。今度福岡に来るときには、宗像にあるという長男の上野朱氏の古本屋に寄りたいと何度も言っていた。まだ事故にあう前、実家で子どもたちを撮ったホームビデオを見ていたら、父親が上野英信の本を片手に話している場面があった。「六反田という所に上野英信の家があって・・・」そんな父の興味に、いつものように僕は冷淡だったが。

昨年4月に太宰府から直方の事務所に勤務先が変わって一週間もたたないうちに父は死んだ。片道40分ばかりの車での通勤になれた頃、宗像から鞍手へ通じる猿田峠を抜けてすぐのところに、六反田というバス停があることに偶然気づいた。調べると、その県道脇の目立たない集落で、かつて上野英信筑豊文庫を開き、炭鉱労働者とともに暮らしていたのだ。そのときからのどかな田舎道に思えていた通勤路の周辺に、無数の廃鉱の気配を感じるようになった。そうして改めて上野英信の本を手にとってみた。

上野は京都大学を中退して、文学を志しながら、筑豊の中小の炭鉱で働くようになる。当時大手の資本が経営する炭鉱と、地元の中小の炭鉱とでは労働条件はまったく違っていたようだ。上野はあえて、後者の、しかも昭和30年代の炭鉱不況の中で、いっそう過酷になった炭鉱労働者の生活に触れながら、ルポを書き続けていく。単に悲惨な現実を告発するというだけなら、ともに炭鉱で働き、終生「廃鉱部落」に住み続ける必要はなかっただろう。上野は、労働というものに価値があると信じられていた時代に生きていたのだ。もちろん、今も労働に値打ちがあることには変わりがないが、それは貨幣に換算される限りでの価値である。いかに多くの貨幣を生み出すかで労働は序列付けられ、生産性の低い労働は切り捨てられることが当然とされる。上野にとっては、労働はそういうものではない。それは悲惨であればその分だけ輝きをますような、世界を根底から支える活動であり、この世に変革をもたらすものである。

知識人が労働の価値を信じて、労働の現場へと降りていき、そこで豊かな言葉を見出していく。同時代の労働者として生きた父にとっては、上野英信のそんな古典的といえるような律儀な知識人の生き方に共感や敬意を抱いていたのではないか、とふと考える。今の僕には労働の過酷さとは、やはりたんなる酷さであって、告発の対象となるとしても、そこに寄り添うべき価値があるとは思えない。上野の「労働者とともに生きたい」という言葉にも倒錯の匂いを嗅ぎ取ってしまう。父もいわば生活の必要悪として労働を受け入れていただけのように思えるのだが、どこかに労働そのものに肩入れする気持ちがあったのかもしれない。そういえば、以前、父の職場で組合活動が盛んだった頃に会社側の第二組合への誘いを断ったという話を多少誇らしげにするのを聞いたことがある。職場の細々としたことはよく話す父だったが、そんな話は初めてだったので印象に残っている。